経済成長?2009/02/21 14:10

本格的なデフレ突入ということで、何をなすべきかの議論が活発化している。野村総合研究所のリチャード・クー氏はバランスシート不況論をもとに十数年くらい前から「対策として穴を掘って埋めるようなことでも良いので公共事業をふやせ」という議論をしている。最近は自民党の議員が検討している「日銀券とは別な政府通貨を発行する」という議論があちこちで取上げられるようになっている。

私は政府通貨を検討するくらいなら、まだ日本では余り議論されていないドイツを中心に自然発生的に現れている「減価する地域通貨」も検討対象に加えるべきではないかと思う(ちなみに「減価する地域通貨」については廣田裕之氏の「補完通貨研究所 Japan」というウェブサイトがある http://www.olccjp.net/ )。これは一定期間使わないと減価する通貨を発行し、それを流通させることで、強制的に貨幣の流通速度を上げる試みだ。

私の世代なら高校教科の「政治経済」でM×V≡P×T(M:流通貨幣量、V:流通速度、P:物価、T:取引量)というフィッシャーの交換方程式というのを習っているが、経済学にはこの変形でMv=PY(M:流通貨幣量、v:所得速度、P:物価、Y:実質国民所得)という方程式がある。厳密には所得速度と流通速度とは異なるが、ここでは大体同じものとしておく。減価する通貨を持たされた個人は通貨が減価する前に通貨を使おうとするので流通通貨量が同じであれば名目国民所得が増加するという皮算用だ。ちなみに政府通貨の発行はこの方程式ではMを増やして名目国民所得を増加させようという試みである。

2/9付のNew York Times (NYT) に登場したドイツのバイエルン州ローゼンハイムを本拠地とする地域通貨Chiemgauerの場合、四半期(3か月)ごとに額面の2%相当額のスタンプを貼らないと通貨が無効になる、つまり使用されない通貨は四半期ごとに額面が2%減価するように設定されているとのことである。確かにクレジットカードのポイントでも「○年○月○日以降は無効です」と言われると、いらないものでも何でも良いから使ってしまおうとする。クレジットカードのポイントではなく、給料の一部がこのように減価する通貨で支払われれば確かに当面不要なものを買うためでもなんでもお金をどんどん使おうとするだろう。実はChiemgauerの話はNYT以外の新聞にも掲載されていて、いかにアメリカがデフレ脱却に真剣になり始めているかが感じられる。

問題は方程式Mv=PVの右辺が名目所得であるという点だ。通貨供給量を増やしても、通貨の流通速度を上げても単にインフレを招くだけではないか?政府通貨発行論者にしても減価する通貨発行論者にしても「現在はデフレなのだから多少のことではインフレにはならない」、或いは「軽度のインフレを招くほうが経済のためには良い」という考えだ。

しかし経済学は科学ではない。政府通貨にしても減価する地域通貨にしても、どれだけ発行すればどれだけ経済が好転するのかは厳密には予測できない。従い政府通貨にしても減価する通貨にしても、最終的には「やってみないと効果のほどはわからない」代物だ。

江戸時代の貨幣の改鋳やら第一次世界大戦後のドイツやら近くはジンバブエまで、この世界は為政者が「手元不如意?エイ札を刷ればよい」と通貨供給を増やして経済を破綻させた例には事欠かない。

減価する地域通貨のほうは大恐慌期のオーストリアのヴェルグル(Wörgl)市で実際に試みられ、同市に限って言えばそれなりの効果をもたらしたとされているが、国全体で試みたらどうなるのかは未経験領域だ。

そうは言っても試してみようというのはそれだけ打つ手がないからである。

しかし、いらないガラクタを積み上げることが「当面の経済対策」には良くても「本当にいいこと」なのだろうか?不要不急なものが生産されるということは、そのために資源が投入されることであり、不要不急であるが故に早めにごみとなって環境に余分な負荷をかけることになるだろう。われわれは不況に直面し自分の生活を維持することに目を奪われて通貨の増発や減価する地域通貨を発行することで、本当になすべきことから目をそらしているのではなかろうか?

シリアの花嫁2009/02/22 19:38

秀逸な人物像の描写とストーリーの構成に支えられた必見映画だと思う。

アジア的とでもいうべき宗教の掟に裏打ちされた濃密な絆で結ばれた村。村の娘モナが軍事境界線の向こうシリアにいる、写真とテレビ(花婿タレルはシリアの売れっ子コメディアンという設定)でしか見たことのないタレルと結婚する朝。いったん親兄弟の住むイスラエル占領下の村を出てシリアに行ってしまうと、いつイスラエル占領下の村に帰れるかわからない、つまりは親兄弟と生き別れになってしまう可能性がある。濃密な絆の中で育ったモナの身を切られるような思い、身を切る思いでモナを嫁がせる家族の思い。この登場人物それぞれの感情描写を見ながら私はボロボロ涙を流した。どうも最近トシのせいかこのような家族の関係を描いたシーンに弱い。昨年1月に封切られた山田洋次監督の「母べえ」でもボロボロやってしまった。

映画はそこここで、この村の濃密な絆の有様を垣間見させてくれる。しかしイスラエル占領下の村にとどまっていても先が見えない。先を求めるなら男もそして女も新天地を求めて村を出なければならない。そこで新しい仕事や人との関係が築かれ、その関係が濃密な村の絆に抵触する場面も出てくる。村に残ってイスラエルへの抵抗活動で逮捕された父ハメッド、おなじく村に残って不本意な結婚生活を送る姉のアマル、妹の式のため国外から村に戻ってきた兄たち、そして村を出て行くチャンスを目前にしたアマルの娘。映画はこれらの人物像と彼らの間の葛藤を巧みに描くことで、村を出たものと村に残ったものとの価値観の相違を浮き彫りにしてゆく。残って居心地がよいが先の見えない村での生活に縛り付けられるか?再び帰ることのできないリスクをおかして村を出て行くのか?

映画の後半、モナはイスラエルとシリア両国間の意地の張り合いに巻き込まれ軍事境界線を越えて花婿の待つシリアへ「出国」することができなくなる。いつまでたっても埒のあかない「出国」が実現する前に、モナは境界線のゲートが開いた隙にシリアに向けて境界線間の無人地帯を歩き出す。アマルは妹が自分の運命を自分の手に持って歩き出す姿を確認して現場を離れる。映画はモナの単独行がどういう結末に終わるのかを知らせずに「終」という言葉も示さずにブラックアウトしてエンディングタイトルに移る。ブラックアウトはモナの身に起こるであろうことの暗示か?

最後に二点。決してイスラエルの占領地に対する政策を好意的に描いているわけではないこの映画が、アラブの国ではなくイスラエルでしかも政府の映画振興資金までついて制作されたという点に注目したい。二点目。この秀作が2004年に制作されてから何で5年もたった2009年に封切られることになったのか、日本の映画配給関係者の怠慢を叱りたい。

旭山動物園物語2009/02/22 22:17

この映画はあまり肩に力を入れず、「万年赤字が止まらないのでつぶされそうになっている動物園を、園長以下の職員総出で何とか建て直そうと必死に努力して建て直した」というスポ根ものストーリーの一種だと思ってみると非常にわかりやすい。これに動物と飼育係とのふれあいや園長以下の職員のやりとりがうまくまぶされているので楽しく見られる。

映画を見ていてハタと気づいたことは、登場人物の家族が全く登場しないことだ。それはそうだろう。映画の中の職員全員が動物オタクで寝食を忘れ自分の時間をすべて動物園につぎ込んでいるのだから。となると家族の登場する場所なんてない。登場人物が議論を戦わせているうちに喧嘩するシーンが結構出てくる。それもそうだろうイノチ動物園の人たちなのだから、と納得できる。家族の姿が現れるのは飼育係の吉田の母親だけだ。それも映画の最初の方と最後の方にスカートをはいた下半身と園長宛の手紙だけ。いよいよスポ根だ。

映画館の売店で主人公のモデルとなった実在の旭山動物園長である小菅正夫氏の「<旭山動物園>革命」(角川書店刊。この映画は角川映画)を購入して読んでみた。この本は映画の原案となった本だが、そこで小菅氏は「飼育係が一丸となってアイディアを出し合い、試行錯誤をした結果、今の旭山動物園ができあがった」と書き、そのためには「動物も人間も、『自分らしさ』を発揮できる環境はなにものにも替え難い」のだと書いている。その自分らしさを発揮できる環境をつくるため、会社用語で言えばQC活動をやり、職員の出すカイゼン提案をとりこんだ由。旭山動物園の今日はこのような職員一人一人の地道な活動を通じて編み出されたのものが実践された結果だという説明だ。確かに映画にあるように職員が動物オタクであることにも肯定的だ。しかし総じて言えば本の方は、いかにスタッフと動物の(そう動物の)モチベーションを高めて今日の旭山動物園ができたのかという軸にそって書かれた一種のマネージメント本だ。

たとえば旭山動物園の生態的展示と多くの動物園で行われている形態展示との違いを、職員と動物のモチベーションを高めて行くプロセスとからめてもっと掘り下げて描いて行くことができなかったのだろうか?おもしろい題材だけに、職員の情熱を熱く語る方に映画のフォーカスが行くあまりスポ根ものを脱却できなかったことが残念でならない。

Slumdog Millionaire ( スラムドッグ$ミリオネア )2009/02/28 00:43

今年のアカデミー賞では日本映画が二部門で優勝したために余り話題になっていないが、今年のアカデミー賞では映画 Slumdog Millionaire が最優秀映画賞を含む8部門優勝と圧勝した。日本では4月に邦題「スラムドッグ$ミリオネア」で公開予定だそうだ。話は「月給900ルピーの貧しい青年がテレビのクイズショーに出て十億ルピーもの賞金をかちとった。貧民街で育ち何の教育もない彼が難問を解けたのには驚くべき秘密が」(2/25付の日本経済新聞朝刊より)というものだ。

この映画は昨年12月からヨーロッパで一般公開が始まりアメリカは1月に一般公開されたが、その時点で相当前評判が高かった映画であり、いつものことながら何で日本で外国映画の公開がこうも遅れるのか (インドネシアだって2月に公開済!)日本の映画関係者の猛省を促したい。「世界同時公開」とか「日米同時公開」などというキャッチがいまだに使えること自体大問題だと思う。

邦題にも疑問がある。原題の意味は「スラムの野良犬から億万長者に」だ。意味不明のカタカナを並べるより、もう少し気の利いた日本語の題名を考えつけなかったのだろうか?

閑話休題。ムンバイのスラムを舞台にした映画や芝居や小説には事欠かない。最近の例で言えば2002年にロンドンでオープンして大ヒットしたミュージカルBombay Dreamsがある(ちなみにSlumdog MillionaireもBombay Dreamsも作曲はA R ラーマン。ラーマンは今回のオスカーで最優秀音楽賞を受賞)。最近では観光客をスラムの中を案内するスラム・ツアーというのまである。

世界にあまたスラム街はあるがムンバイのスラムは

1. 絵になるほど際立った貧しさ。英語ではこの「絵になる」現象に対しpoverty porn(貧困ポルノ)という言葉があるくらいだ。

2. スラムの規模。ムンバイの人口の約6割(ということは約700万人)がスラムに住んでいるという推計もある。東京の区部の人口は約870万人だ。

3. インド最大の商業都市であるムンバイの繁栄と隣り合わせてスラム があるという極端さ。

4. [インド人が時々建前論的に持ち出す意見]: 貧しい中にも活き活き感があること。スラムの住人は概ねなんらかの生業を持っておりスラムはその生業(家内工業)の基地である。→ 正直なとこ私はこれは言い訳だと思う。

といった要素もあって話題になることが多いようだ。

しかし、例えば上記の4.の「希望に満ちたスラム」観はその実インドの人口11億人の内約8億人が極貧層であるといった事情から多くのインド人が貧困問題についてある種の諦めを持っているという事実を糊塗する論理である(無論スラムの状況を変えようと懸命に努力しているNGOが多数存在することもまた事実ではあるが)。釈尊が出家を志した理由がカピラヴァスツ城の外で老病死の姿を見たからだとされているが、釈尊の時代から(おそらくはそれ以前から)インドには厳しい生活を余儀なくされた貧しい人々が多数存在していたのである。

貧困の発生にはそれなりに構造的な要因があり、経済成長すれば自然と貧しい人々がいなくなるというほど単純な問題ではない。

構造的な要因とは、貧困が社会構造の中に組み込まれていて、貧しい人々のほとんどがいつまでも「人手によるゴミの分別」といった低付加価値の仕事から、より付加価値の高い仕事に脱却できない状況のことである。

どうしてスラムでもう少し付加価値の高い仕事をして生活水準を向上することができないのだろう?

インドの労働人口の60%が農業に従事している (中国は43%)。農村ではまだ農地改革が貫徹しておらず、小作人やその子弟にはスラムで得られる所得のほうが農村で得られる所得を上回る状況だ。当分の間、口減らしのため農村からはじき出された人々が低付加価値の仕事を続ける労働力の供給源となる素地があるということだ。農地改革をきちんと実施し、農村の所得を増やさないと、当面都会のスラムに向かう人口が減ることはないだろう。

どうしてスラムが増え続けるのだろう?スラムは不法占拠された土地に建設されているが、そこにはSlumlordといわれる家主がいる。数メートル四方の掘っ立て小屋でも家主に家賃を払わねばならない。その家主は地元の政治家に献金をすることでスラムが立ち退かされたりすることを防いでいる。地元の政治家はスラムに選挙区を設定することで安価に自分の地位を安定させられる。スラムをそのままにしておくことのためにいろいろ利権が働いているのである。

米国のForbes誌が公表するWorld’s Billionaires(世界の億万長者) リストの直近版によればインドの億万長者は53人、GNP総額がインドの4.7倍の日本はその半分以下の24人だ!都市部では弱体化してきているとは言ってもインドにはカースト制という身分制度が釈尊以前の時代から健在だ。このような不平等を固定化させるメカニズムの影響も構造要因として考える必要がある。

インドの貧困問題は「様々な構造的な要因があって、一朝一夕では解決できない」ということだけは認識しておく必要があるだろう。

水のなるほどクイズ2010