一歩譲って相手の成長を待つ2009/08/05 21:15

本年4月~5月にかけて実施された総選挙に勝利して順風満帆のように見えたインドのマンモハン・シン首相だが、エジプトのシャルム・エル・シェイクで開催された非同盟諸国会議に出席した際7/16にパキスタンのユスフ・ギラニ首相と会談して発表した共同声明に足をすくわれることになった。Lok Sabha(下院)では野党BJPが審議拒否をして退出する事態になったし与党内部にも不協和音が響いている。

インドやパキスタン以外ではあまり報道されていないが、この共同声明はマンモハン・シン首相が「インドが譲った」内容に同意することで不安定なパキスタンの現政権の安定を図った、つまりはインドが南アジアの盟主として自分の納得できる形でのこの地域の安定をはかるため、目先の体裁を超える行動をとった好例だといえるので少し解説をしてみたい。

共同声明の内容は大きく言って二点でインド側が譲歩している。

第一点:

昨年11/26、パキスタンのテロリストがインドの商都ムンバイに上陸し高級ホテルや病院、ターミナル駅を三日にわたり攻撃して500人近くの死傷者出したことは記憶に新しい。インドは対抗措置としてパキスタンとのComposite Dialogue(包括的な対話)を

(1) ムンバイ攻撃に関係したテロリストを裁くこと(bring the perpetrators to justice)

(2) パキスタン国内にあるテロの構造が解体されるよう明快かつ継続的な措置を講じること(take credible and sustained measures to dismantle the infrastructure of terrorism in Pakistan)

の2条件を満たすまでは停止するとしていた。ところが今回の共同声明では

Action on terrorism should not be linked to the Composite Dialogue process(テロに対する行動は包括的な対話とは結び付けられることなく)and these should not be bracketed(それらは別扱いにされるべきではない)

とされ、包括的な対話とパキスタン国内のテロの構造の解体が切り離された格好になっている。

共同声明の「それら」の意図することが「テロに対する行動」であれば本文は「包括的な対話の推進状況にかかわらずテロに対する行動は遂行される」との内容を持っていると読めるのでまだしもだが、「それら」の意図するところが「包括的な対話」であれば本文は「包括的な対話はテロに対する行動の遂行とは無関係に推進される」との内容を持っていることになる。このような解釈の余地を残したことはインド側の立場が一歩軟化したと解釈すべきだろう。インド国内での共同声明への反発はこの点を突いている。

しかし包括対話再開条件のうち(1)はいざ知らず、(2)は「パキスタンはfailed stateか?(2/2)
http://mumbaikar.asablo.jp/blog/2009/04/15/4245648
でも書いたような事情で「パキスタン軍の情報組織を解体しろ」と言っているようなものだ。この条件に拘泥している限り印パ間の包括対話などストップしたままだ。「Failed stateのパキスタン相手に包括対話をする意味などあるのか」と言う議論をとらず「パキスタン国内のイスラム過激派の跋扈を良しとしない国論の育成を図るのがこの地域の安定を推進する」と言う立場にたつなら、この譲歩は必要であったというべきだろう。共同声明にはPrime Minister Singh reiterated India's interest in a stable, democratic, Islamic Republic of Pakistan(シン首相はパキスタン・イスラム共和国が安定した民主的な国家であることにインドが関心をもっている旨再度表明した)との一文があるが、この一文はインドが後者に賭けたことの証左だ。

マンモハン・シン首相の選択を日本に置き換えれば、北朝鮮との関係において日本が拉致問題と国交問題を切り離す選択をしたようなものだ。

第二点:

Prime Minister Gilani mentioned that Pakistan has some information on threats in Balochistan and other areas.(ギラニ首相はパキスタンがバロチスタンその他の地方の脅威に関するいくつかの情報を持っていると表明した)の部分だ。

バロチスタン(バルチスタンともいう)はパキスタン西部の開発の遅れた砂漠地帯だが、ここは天然ガスなどの資源が豊富だ。そこに住むバロチ人(バルチ人とも言う)がパキスタンの中央政府に対して継続的に独立戦争を展開している。バロチ人の言い分は自分たちの住む地域の資源が中央政府によってパキスタンの他の地域に持ってゆかれているというもので、これは中国のウイグル人が「漢民族は自分たちの資源を奪っている」と言っているのと同じものだ。

パキスタンは以前からバルチ人の独立闘争の資金はインドの対外諜報機関であるResearch and Analysis Wing (RAW) が提供しているとしており、今回の共同声明はパキスタンの首相がこのことを婉曲にインドの首相に指摘したことを確認していると言うわけだ。RAWがバロチスタンで活動していること自体は十分ありうる話だが、カシミールにおけるパキスタンの諜報機関ISIの活動のような形でRAWの尻尾がつかまれたことはない。

インド側には証拠もあるのだからPrime Minister Singh indicated that India has numerous information on threats in Kashmir and other areas(シン首相はインドはカシミール及びその他の地域の脅威について多数の情報を有していると表明した)と言う一文を共同声明に残せなかったのだろうか?このあたりもパキスタンの崩壊を食い止めたいインドが「譲った」部分なのかもしれない。

話は飛ぶが最近アメリカのオバマ大統領が国民皆保険問題でつまずいている。国民皆保険問題についてはクリントン元大統領もつまずき、結局断念し、それが彼の政権にとって相当のダメージになっている。アメリカの健康保険問題はつまるところ「医療保険業界と医師会からたっぷり政治献金を得ている議員が多いため、国民皆保険の推進についての議会の意見がまとまらない」ことがその背景にある。オバマ大統領は政権公約として国民皆保険を打ち出しており、事態を乗り切れるかどうかオバマ大統領の統治能力が問われているのだ。今回のクリントン前大統領の北朝鮮訪問の意義はこのような背景の中でも読まれるべきではないかと考えている。

翻ってインド。マンモハン・シン首相は当面の国内世論の沸騰にどんな手を打つのだろう?パキスタンの牢獄に何十年もつながれているRAWの諜報員の救出劇でも演じるのだろうか?

補足: 「パキスタンはfailed stateか?(2/2)」でパキスタンにはISIと言う情報機関があると書いたが、対応するインドの組織がこのRAWだ。RAWは1968年に組織された対外諜報をつかさどる組織で、その長官は内閣府でSecretary (Research)(調査担当次官)と言うポジションを持ち、首相との間で直接の受命報告の関係にある。ISIは軍の機関なので長官も軍人だが、RAWは文民統制が実施されており長官はIAS(インド高等文官)またはIPS(インド高等警察官)出身の官僚だ。

水のなるほどクイズ2010