Ambani(アンバニ)一族物語 (1/2)2009/08/15 04:54

インド亜大陸の人達はおしゃべりが好きだ。親類縁者は言うに及ばず、友人知人、会社の同僚、果ては友達の友達が何かと言うと集まって会話に興じる。このような会話の中で、公式用語で言えば社外秘的な話がよく登場する。彼らと話をしていてjust between you and me(ここだけの話だけれども)といって話をきかされたことが何度あったか知らない。こういうことだから情報がよくもれる。ただうまくしたもので、人の輪には通常限界があり、情報も通常はその輪の中にとどまる。従い情報通になるにはいくつもの輪に入っていないとだめだ。

インド最大の企業であるReliance Industries Limited (RIL)の創始者である故Dhirubhai Ambani(ディルバイ・アンバニ)はあくなき事業欲と、その実現に必要な友人知人のサークルの開拓にその一生を費やし一代でリライアンス・グループをインド有数の財閥に育て上げた立志伝中の人物だ。尚、現在のRILはディルバイが始めたReliance名を冠するさまざまな事業の一部をまとめたもので、規模感でいうと2008年度売上1.46兆ルピーで純利益1561億ルピー(インドの会計年度は日本と同じ4月~翌年3月)、それぞれ2.75兆円と2934億円だ。2007年度の売上が1.4兆ルピーで純利益が1946億ルピー、それぞれ3.47兆円と4843億円。新日本製鉄の純利益は2008年度が1551億円、最高潮の2007年度が3550億円なのでRILだけで利益規模で言えば日本の大企業を完全に凌駕している(インドルピー/円レートは各期末である2008/3/31と2009/3/31のレートをそれぞれ適用している)。

尚よく中印という形で比較されるが、世界の企業経理やM&A業界の常識として

<一般的にインド企業の財務諸表のほうが中国企業のものより開示がきちんと行われ内容に対する信頼度が高い>

と認識されている。

そのリライアンス・グループのお家騒動が今インドの人たちの間で噂の種になっている。

ディルバイ・アンバニはインド西部のグジャラート州で1932年に教員の次男として生まれた。ただし、彼のカーストは商人カーストのBania(バニア)であり彼の血の中にインド商人の血が流れていなかったわけではない。

インド独立直後の1948年に16歳のディルバイは当時の英領アデン(イエメン人民民主主義共和国の首都を経て現在はイエメン共和国の一都市)に移り、フランス人経営の商社のシェル石油担当をしていた。ガソリンスタンドの給油係から始め、その後シェル製品をソマリアやエチオピアなどの近隣諸国に販売するセースルマンに昇格し、最終的にはアデンの英軍基地担当をしていた。この会社の中間管理職以下はほとんどインド人で固めていたようだ。

アラビア半島には多くのインド人が居住しているが、これはアラビア半島にあった英国の植民地や保護領が全てインド総督府の監督下にあったことがその背景にある。通貨もインド・ルピーであったから、英国が手を退いてからも引き続きインドがこの地域の統治をするなりインドの経済圏内においていれば、石油危機後の世界の姿はずいぶん異なっていたはずだ。

アデン在住中の1954年、いわゆる写真見合いでKokilaben(コキラベン)と結婚したディルバイは1958年にアデンで生まれた長男Mukesh(ムケシュ)と妻を伴いインドに帰国し、ボンベイ(当時)でポリエステル糸の輸入商を操業する。現在のRILの前身だ。その後インドの輸入規制を上手にかいくぐり、利用し蓄財を行った。

日本には戦後の一時期輸出振興のため輸出者に優先的に外貨の割当が行われ、その割当証明が譲渡可能であったため割当証明のブローカー業が成り立っていた時期がある。インドにも類似の制度があったがディルバイは外貨割当を他人に売却するのではなく、香辛料などを赤字輸出しともかく外貨割当を稼ぎ、割当てられた外貨を使って国内で不足している物資を輸入して利益を上げるという手法で蓄財したようだ。その際輸入したものが合繊糸だった。

ディルバイはやがてポリエステルの生産に参入し、繊維製品の生産に乗り出し、その原料を求めて石油精製に進出し、と彼の事業はポリエステルの上流と下流に展開してゆく。

私が’70年代にインドに行き始めた頃、テレビで盛んにOnly Vimal(絶対ヴィマル)と言うキャッチのコマーシャルが流れており、インド人の家に行くと子供がOnly Vimalと叫んで飛び回っていたのを覚えているが、これはRILの前身Reliance Textilesが、製造する服地にインド企業としては珍しくVimalというブランド名をつけ、そのブランドの浸透作戦を展開していたからだ。

ディルバイ成功のもう一つのポイントはIPOを通じて多数の一般株主に自社株を売却し、インドの株主資本主義の基礎を築いたことだ。1977年のRILのIPOには58,000人余の株主が応募した。

これだけ急成長を遂げるといろいろ敵が現れ、足を引っ張られるのが常だが、ディルバイは巧みにすべてのピンチをすり抜け事業を拡大した。彼にとって計算外だったのは2002年の彼の死後、事業を相続した二人の息子Mukesh(ムケシュ)とAnil(アニル)が相互に反目していることだろう。

戦前からのインドの財閥ビルラでは創業者のG. D. ビルラ存命中に事業を三人の息子の間に分けて管理させていたので死後さしたる跡目相続争いが起きなかった。

しかしディルバイは遺書を残さなかった。このため兄弟の争いの第一弾が切って落とされた。

第一幕は最終的には母コキラベンの裁定により(このあたりが極めてインド的だ)、2005年に兄のムケシュがRIL、Reliance Petroleum、IPCLなど石油、石油化学、繊維製品関係など製造業系の事業を、弟のAnilがReliance Communications (電話事業)、Reliance Power(電力事業)などサービス業系の事業を引継ぐことで結着した。

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