日本のワインについて2009/09/05 16:31

私はそんなに酒が強くないが「味はわかる」と自称している。特にワインとは小学校五年のときにクラスメートの家に遊びに行って、クラスメートの親に隠れてクラスメート三人でワインを一本空けて帰宅途中家のそばのラーメン屋の前の路上にご馳走になったものを戻して以来のつきあいだ(翌朝店がまだ開く前の時間にコッソリ現場を偵察に行くと、きれいになくなっていた)。

会社に入ると同期の友人が初給料でイギリス人の書いたワインの本を買ってきて、給料が入ると彼とそこにでている高いフランスワインを買って飲んでみたりしたこともあった。

親友に数えるあるアメリカ人とは、1980年代、彼が東京駐在のときスペインの有名ワインVega Siciliaの話をきっかけに大いに話がもりあがって以来の付き合いだ。Vega Siciliaなんて当時日本ではほとんど知られていなかったワインのことを知っていたのは、当時のガールフレンドのところを訪ねてきたスペイン人の夫婦と話していて得た耳学問だ。アメリカ人の友人はサンタフェの自宅に数千万円分のワインを溜め込むワイン通であったが、失職した際そのコレクションを売却した。彼からもらったVega Sicilia Unicoは友人夫妻と東京のスペイン料理店のハシリEl Castillanoで空けた。

婚約者と一緒に1970年代のカリフォルニアでワイナリーめぐりをした影響もあって、彼女と結婚してから家族で結構甲府盆地のワイナリーを回った時期がある。1980年代の話だ。甲府盆地のワイナリーは当時からテイスティングをやっていたが、主力は一升壜売り、白なら使うブドウは甲州かデラウェア、赤ならマスカットベリーAと相場が決まっており、特にベリーAのワインはボディー不足のため輸入の赤ワインを混ぜて出荷されるのが常であった。どこのワイナリーのワインを飲んでも多少の甘さ辛さの差はあってもにたりよったりの味であった。

その当時、地元では大手のワイナリーのフェスティバルを訪れた際、そのワイナリーの社長が「ワイナリーはその地の特性を反映した地場品種のブドウを醸造すべきで、売れると言って欧州品種を育ててワイン作りをするのには賛成できない」といってアメリカやオーストラリアのワイナリーを批判していたことを覚えている。もっともそのワイナリーも今や欧州品種のブドウをどんどん育ててワインにしているのだから、20年の間で社長の考えが変わったのだろう。

どれを飲んでもあまりかわりばえしないこともあって、日本のワインからは大分遠ざかっていたが、20年以上たった現在再び甲府盆地を訪れるようになった。その間ワイナリーのオーナーは大分代替わりし、代替わりしたオーナーの中には欧米やオーストラリアの大学で醸造を学んだ人が見られるようになった。代替わりはしていないが、前述のワイナリーの社長のお嬢さんもフランスに留学している。欧州種のブドウを育ててるようになったのはここ10年くらいのことだが、欧州品種も相当栽培され、それを使用したワインの数も増えてきたし、甲州ブドウ(甲州固有の藤色の、ヨーロッパのワイン専用品種と同じvitis vinifera種のブドウ)の限界を云々しているワイナリーオーナーも存在するようになった。つまり甲州のワインの種類もふえたし作り方も欧米並になってきたし、地元のブドウである甲州種に対するワイナリーオーナーの思い入れも多様になってきたわけだ。余談になるが、その甲州種の限界を云々するオーナーが作った甲州種のワインが抜群においしかったので、彼が欧州種のブドウで作るワインが今後どうなるかには大いに期待している。

あちこちで飲んでみて中には本当においしいワインもあることがわかった。昔の薄いベリーAの記憶を完全に覆すようなベリーAを使ったワインがあったりする。あるワイナリーの収穫を手伝いに行ってその理由がわかったような気がした。収穫するブドウの房から、未熟だったりつぶれたりした果実を一個一個除外して(この作業を「摘果」という)「良果」だけにしてからつぶしているのだ。日本的に手がかかっている。しかしこれではコストがかかる。日本にコストパーフォーマンスがよいワインがあまりない理由がわかる。

元々ブドウは中東のように乾燥した大地に育つ植物だ。乾燥した大地にさんさんと太陽の照るカリフォルニアやチリやオーストラリアで良質のブドウがどんどんできるのはこのためだ。イスラム革命前のイランで良質のワインが生産されていたり、最近ではインドで良質のワインが生産されるようになってきているのはそのせいだ。多湿の日本では相当の手をかけないと良い品質のブドウができない。雨よけのためにブドウの房ひとつひとつに紙で笠がけするのなどはその良い例だ。

このように本質的にコスト高にならざるを得ない日本のワインが生き延びるには、不断の品質向上に挑むワインの生産者と、そのような生産者を励ますワインの飲み手との間の協力関係が必要だ。幸いなことにこのような飲み手が増えてきていることは事実だ。しかし、不断の品質向上には本当に頭の下がる日々の努力が必要だ。損得抜きでワイン作りが、ブドウ作りが、好きでないとやっては行けない。日本のワイン生産者を励ます飲み手の層がもっと厚くなることを願ってやまない。私も肝臓と財布の許す限り陰ながらサポートしてゆこうと思う。

第二次世界大戦開戦70周年--なかなか許してくれない国2009/09/09 22:28

第二次世界大戦のことを「太平洋戦争」とか「大東亜戦争」とか言い直している日本ではあまり認識されていないが、今年は第二次世界大戦の開戦70周年だ。

第二次世界大戦はダンチッヒ[註 1]に駐屯するポーランド軍の陣地を1939年9月1日にドイツの軍艦Schleswig-Holstein(シュレスヴィヒ・ホルスタイン)が砲撃したことを契機として始まった。ポーランドに対して開戦の火蓋を切ったのはドイツだが、ソ連は開戦直前の8月24日に調印した独ソ不可侵条約に基づき9月17日にポーランドに進攻しポーランド東部を占拠、ポーランドは独・ソの間で分割された。

[註 1: 市民のほとんどがドイツ系であったことから当時は国際連盟管理下の名目上ポーランド領の自治都市。ドイツの敗戦に伴いドイツ系の人々が放逐され現在はグダンスクと名前を変え名実共にポーランド領]

9月1日にそのグダンスクでポーランド政府主催の第二次世界大戦開戦記念行事が行われた。

ドイツは政権党が誰であっても戦後一貫して「第二次世界大戦を起こしたのはドイツの責任で、そのことを深く反省しており、このようなことが再度起こらないことを誓う」という立場を崩していない。記念行事に参加したドイツのメルケル首相は改めてこのドイツの立場を確認した。

政府関係者が時折「ポーランドはナチスに加担していた」といった発言を繰り返す(自民党の政治家みたいですね)ロシア。記念行事に参加したロシアのプーチン首相は率直に過去のソ連の行動の誤りを認め、KGBの前身NKVDによってポーランド人2万人が殺害されたカチン虐殺に関する当時のソ連の記録をポーランド側に引き渡すことを約束した。

対するポーランド。中国や韓国が折に触れて「第二次世界大戦やそれ以前の時期の両国に対する扱いに対する改悛の情が足りない」といって日本政府の対応を批判するが、レヒ・カチンスキー大統領の演説を聞くとポーランドのドイツやロシアに対する対応も似たようなものだという印象を持った。

何しろいまだに「ポーランド人600万人がドイツに殺されたのでポーランドの人口が立ち直っていない。EUにおける予算配分にはこういう要素も考慮すべきだ」といったことを大統領が発言したりするお国柄だ。

私はドイツが第二次世界大戦後、占領していたフランスとの関係を修復しヨーロッパ共同体の中核たりえたのも、1000万人を超えるソ連市民の命を奪いながらも独露関係を修復できたのも、600万人のユダヤ人殺害にもかかわらずイスラエルとの間で正常な関係を取り結べたのも、ひとえにドイツ政府のこの一貫した態度にその一義的な原因を求めることができる、と考えてきた。

「一義的」と書いたのは、たとえば独露関係で言えば、進攻された側のロシアでは旧ソ連時代にスターリン批判を行い、まがりなりにも「自分たちの為政者も自国民に対してナチス・ドイツ並みのひどいことをしてきたのだ」との認識を持った、という素地がソ連の側にも準備されていたからだ。

私は中国や韓国に対して、日本は公式にはキチンと謝罪しそれなりの対応をしていると考えている。にもかかわらず中国や韓国はことあるごとに日本の過去の責任をあげつらう。政権党であった自民党の政治家が無神経な発言をして、政権与党である自民党のホンネが透けて見えただけに、中韓につけ入られやすい素地があったことは事実だ。

しかし中国では、日本の中国侵略の結果死んだ軍民の数約1000万の数倍にあたる数千万の中国人が中国共産党の統治下で死んでいる事実は封印されている。「独露関係のような日中関係が出来上がるには、日本側が不用意な発言や行動をとらないと同時に、中国が自国の歴史を覚めた目で直視できる状態になるまでは無理」というのが私の評価だ。

しかしポーランドの姿を見ていると、「なかなか過去を率直に認めない国」の他に、「なにをやってもなかなか許してくれない国」というものもあるのではないかという気がする。しかしそのポーランドでもドイツとロシアに対しては評価が異なるという。

日中関係や日韓関係の修復には根気と、日本側の関係者の継続的な自制が必要だ。我々は日本のアジアとの関係修復には非自民党の首相であった細川護熙氏の発言や、社会党出身の村山富市首相(当時)が1995年8月15日に行ったいわゆる村山談話が大きく役立っていることを認識しなくてはならない[註 2]。今回の政権交代により、この自制がより確固たるものとなることに期待したい。

[註 2: 例えば東南アジアのご意見番リー・クアンユー元シンガポール首相は、その自叙伝The Singapore Story 1965-2000(邦題:「リー・クアンユー回顧録<下>」)で、いかに歴代の自民党の首相が「謝罪」を回避してきたかについて説明した末、
<One outcome of this break in the LDP hold of government was that Morihito Hosokawa
became the first prime minister to admit in unambiguous language Japan’s aggression in
World War II and apologise for the sufferings caused. He did not have the LDP mindset, to
hang tough over their war crimes. This unqualified apology came only after a
non-mainstream party leader became prime minister.

The following year, Prime Minister Tomiichi Murayama of the Social Democratic Party of
Japan also apologized, and did so to each Asean leader in turn during his visits to
Asean countries. (中略) On the 50th anniversary of the end of the war (1995), he
expressed once again his feelings of deep remorse and his heartfelt apology.

自民党が権力を手放したことによるひとつの結果が、細川護熙が第二次世界大戦における日本の侵略を認め、その結果の被害に対して明解な謝罪をした最初の首相となったことだ。彼は日本の戦争犯罪に対して硬直的な態度をとる自民党の考えを持っていなかった。このような無条件の謝罪は、非主流の政党の党首が首相になってようやく実現したことだ。

翌年社会党出身の村山富一首相もまた謝罪を行ったが、彼はアセアン諸国を訪問した際にはアセアン各国の指導者に対し個別に謝罪している。(中略)大戦終了50周年の際(1995年)、彼は再度深い自責の念と心からの謝罪を表明した。[ブログ子訳]>

と言う評価をしている。]

インドとイギリス2009/09/10 23:28

経済史家の故吉岡昭彦東北大学教授の著書に「インドとイギリス」という1975年初版の岩波新書の本がある。氏が1973年のイギリス留学の途中に立ち寄ったインド旅行の印象をイギリスの印象と関連付けてコンパクトにまとめた本だ。

1973年のインドといえば外貨規制が厳しいし、経済は政府が厳重に規制しているし、インド人はチャンスを見つけてはどんどん国を去る、というような時代だ。一方イギリスはといえば経済が長期にわたって停滞し、年中ストライキが起きていつも国の機能の何かがストップし「くすんだ耐乏生活の国」という感じがする状態だった。

初版から30年以上たった今、改めてこの本を手に取り再読してみる。

<戦後30年、イギリスは、植民地帝国の負債を、「帝国主義の報復」によって弱められたみずからの力にのみ頼って、最終的に決済しなければならなくなっている。何人といえども、「歴史の審判」をまぬかれることはできない。イギリスは、「歴史の審判」に服して、みずからの歴史的営為と罪業を自覚しつつ、新しく生れ変わることができるであろうか。>

というおおげさな一文でこの本は終わるが、これに対して私が今回答を書くとすればこんな感じになると思う。

1970年代「沈み行く大国」と揶揄されたイギリスは、1979年~1990年まで首相を務めたマーガレット・サッチャーの一連の政策を契機として、付加価値のきわめて高い金融とサービスを核とした経済復興を遂げた。第二次世界大戦後一貫して長期低落傾向に歯止めがかからなかったイギリスが生まれ変わったのだ。

金融とサービスを中心としたイギリスの経済復興はイギリスだけに留まらず、隣国のアイルランドにも波及し、万年的な不況とそれに伴う人口流出に悩まされていた同国の経済をThe Celtic Tiger(ケルトの虎)と形容される高度経済成長に導いた。

イギリスの経済復興は元々イギリスが強かった文化発信力と結びつき、音楽、映画、演劇、小説といった文化面でもイギリスは花開いた。1997年から2007年まで首相を務めたトニー・ブレアはこの状況を愛国歌Rule Britannia(ルール・ブリタニア)をもじってCool Britannia(クール・ブリタニア)と形容した。

我々はこのイギリスの経済にしても、文化にしてもその発展の大きな担い手が旧植民地出身者であることに注目すべきだ。幾人か例を挙げれば、世界最大の製鉄会社ArcelorMittalの社長のラクシュミ・ミッタルはインド出身だし(ついでに言えば彼はマルワリだ。マルワリについての説明は http://mumbaikar.asablo.jp/blog/2009/08/29/4548042 )、「悪魔の詩」を始めとする一連の文学作品で世界各地の文学賞をとっているサルマン・ラシュディもインド出身だ。

文化面でいかにインドがイギリスと融合しているかを示す好例として、このブログを始めた頃に公開された映画「スラムドッグ$ミリオネア」
http://mumbaikar.asablo.jp/blog/2009/02/28/4144280
http://mumbaikar.asablo.jp/blog/2009/04/21/4258448
http://mumbaikar.asablo.jp/blog/2009/04/25/4265839
がある。イギリス人の監督がほぼ全面インドロケでおまけに台詞の相当部分がヒンディー語で製作した映画がイギリスのみならず世界的に大ヒットしたケースだ。「スラムドッグ$ミリオネア」ほど有名ではないが、日本でも公開されたサッカー好きなインド系移民の若い女性を扱った映画「ベッカムに恋して」(原題Bend it Like Beckham、監督はインド系のグリンダ・チャーダ)や、ミュージカルの巨匠ロイド・ウェバーが監督したヒットミュージカルBombay Dreamsや、もっと生活に近い部分で今やイギリスの国民食がフィッシュ・アンド・チップスと共にカリー・アンド・ライス(早い話がカレーライス)であることをあげられる。何しろロンドンにはインドの首都のデリーよりもインド料理店が多いと言う状態なのだから(もっともそのレストランのほとんどはバングラデシュ出身者の経営だが)。

1970年代初頭に吉岡が「『天国』自身のなかに、『地獄』から来た人間が入り込んだ」と形容したその「地獄から来た」インド人は節約を重ねながらも子弟の教育に投資し、そのような子弟の中から事業家や、作家や、弁護士や、会計士が輩出し、イギリスの産業の転換を担ったのだ。イギリスの復興は「みずからの力にのみ頼って」などというミミッチイ次元を超越し、各層の移民の力を動員したからこそ可能となったのだ。

他方、植民地的な遺制に縛られて低賃金構造にはまっていると吉岡が記したインドは、宗主国の言葉を繰れる特技を活かして英米を中心とした英語圏の国々にソフトウェア開発や、business process outsourcing(BPO、業務アウトソース)といわれる一連の事務処理サービスを提供する事業を興していった。現在インドのソフトウェア産業とBPO産業の売上は1320億米ドル、200万人以上の雇用を発生させ、500億米ドルの外貨を稼いでいる。国連統計によればインドの輸出は2007年に2552億ドルであったので、ソフト/BPO産業が雇用されている人の数に比していかにインド経済の大きな部分を占めているのかがよくわかる。

インドの元駐日大使と面談した際the best thing the British did was giving us English(イギリスがやったことで一番良かったことは我々に英語を遺してくれたことだ)といっていた。確かに、ITやBPO産業の発展に英語は必要条件であったと思う。しかし、世界にはパキスタンやスリランカやフィリピンや南アフリカのように英語ができて先進国より賃金が少ない国は存在する。インドのITやBPO産業が成長できた背景には、皮肉なことに多数の優秀なインド人が国外に散っていたので彼らの力を借りながら市場開拓ができたという側面や、最近喧伝されるインド人の数学的能力、そして新天地に貪欲に進出して行くインド人の進取の気性に依拠する部分も大きい。

もしインドがITやBPOに進出しなければインドは他の国と同一の地平で付加価値の低い製造業からより高い製造業への産業高度化の道を歩まねばならず、このように一足飛びで高付加価値産業の成長を起爆剤とすることで経済成長の軌跡を描くことはできなかっただろう。

吉岡がインドを訪問したときの人口は6億人。今インドの人口は10億人を超え、その内8億人が食うや食わずの生活を余儀なくされている(しかし最近は吉岡が書いたころほど街角で乞食や物売りにつきまとわれることはない)。いくらIT/BPO産業の波及効果で間接的に雇用が発生しているといっても200万人の数倍でしかなかろう。業界団体Nasscomの見立てでは間接的な雇用発生効果が800万人だという。この数字を採用したとしても食うや食わずの人口の1%弱。

「インド経済の今後の課題は付加価値が低くてもこの8億人に有意な雇用を提供できるだけの産業をどうやって生み出すのかにかかっている」と断じてこの文章を結びたいところだが、インドや中国のように10億クラスの人口のある国が、野放図に経済成長すれば世界の資源は干上がってしまうし、地球環境の温暖化は危機的なレベルまで進むことになるかもしれない。そのような中で、早くから高付加価値産業を発展させたインドは、ここから生まれる富の分配の問題に正面から取組むことができれば、存外、過度に製造業に依存することなく、環境にやさしい新興国の経済成長の一つのモデルとなる可能性があるのではなかろうか。

リーマンブラザース倒産一周年2009/09/19 17:46

9月15日は投資銀行Lehman Brothersリーマン・ブラザースの倒産一周年だった。さすがにたった一年前の、今回の金融危機の最も象徴的な出来事だけのことはある。第二次世界大戦開戦70周年は日本ではほとんど話題にならなかったが、海外のメディアはもちろん、サラリーマンの私が毎日読む日本経済新聞もリーマン倒産1周年のほうはアレコレ取上げている。本もあれこれ出揃った。

今回の金融危機について私の結論をまず書いておこう。

個々人のリスクに対する許容度の差があるにせよ、人間はリスクを好む動物だ。従い人間社会は絶えず過大なリスクを背負いこむ可能性を抱えている。従い金融危機は今後とも起こりうる。

しかし、危機の規模はコントロール可能だ。コントロールの手法には例えば今度のピッツバーグG20でEUが提案予定の高リスクの金融商品を扱う金融機関関係者の報酬の制限や、ごく最近英国のFinancial Services Authority(FSA。金融サービス機構)長官のターナー卿やフランスのクシュネル外務大臣が提唱している金融取引税の課税があると思う。しかしこれらはいわば対症療法で、根本的な対策ではない。

「根本的な対策」とは言うは易く実現が非常に困難な

1. 実体経済の数倍にまで拡大した金融商品市場の規模の縮小と、

2. つい最近フランス政府のCommission on the Measurement of Economic Performance and Social Progress(経済的な成果と社会発展の計測に関する調査会)が発表した報告が指向している、経済的な成果の評価に関する価値体系の変換

だと思う。

私の結論を述べたところでリーマン倒産1周年にちなんで私の見解をもう少し詳しく説明してみよう。

☆ 何故金融危機が起きたのか?

前述したように人間はリスクを追う性向のある動物だ。「生涯バクチをしたことがない」と言う人でも、「コレかアレか」と言う選択肢に向かった際、「これまでやっていたこととは違うが、コチラを試してみよう」と言う選択をした経験があるはずだ。うまくすれば今までやってきたことより大きな成果をあげられるという目論見に賭けるわけだ。試した結果の多くは失敗に終わるが、成功例の中から発展が生まれる。人間社会の発展はこの「ある可能性に賭ける」と言う行為なくしては考えられない。

ただ、そうやって追い求める「ある可能性」は本質的には「より安全な可能性」に比べ達成が困難で、それを追い求めることには非常なリスクを伴う。「ある可能性」が遠大な目標であればあるほどリスクも高い。今回の世界金融危機は金融機関が過大な利益を求めて過大なリスクを負った結果であるという定性的な説明自体は間違いない。

☆ 過大とはどれくらいのことをいうのか?

「何が過大か」という定量的な問題に対する解答は非常に困難だ。いろいろな計算はできるが、その計算自体ブラック・スワンの状況下ではまったく外れる[註 1]。後述する1998年のLTCM破綻の救済融資団に加わった米国の証券会社Merrill LynchメリルリンチがLTCM破綻処理後のアニュアル・レポートで

<mathematical risk models "may provide a greater sense of security than warranted; therefore, reliance on these models should be limited.”
[数学的なリスクモデルは]実態以上の安心感を与える可能性があるので、これらのモデルへの依存は限定的であるべきである>

と書いていたといわれるが、当時から、否それ以前から、冷静に考えればものごと計算どおりに行かないことは誰でもわかっていたのだ。我々は「どこに定量的な線を引くかということ自体一種のバクチなのだ」と言うことをまず理解しておかねばならない。

[註 1] レバノン人の元投資銀行家のニコラス・ナッシーム・ターレブ(現ニューヨーク大学教授)が、当事者の誰もが予想していなかったレバノン内戦(1975~1990)の開始と継続の経験をもとに「数学的な予測手法ではまったく予測不能な、それまでの常識が通用しないような事態はいつでも起こりうる」ということを説明するために書いた本の題名(原題 The Black Swan: The Impact of the Highly Improbable。初版2007年。邦題「ブラック・スワン―不確実性とリスクの本質」上下。邦訳初版は今年)。題名は18世紀にオーストラリアで黒鳥(black swan)が発見されるまで白鳥(swan)は白いものだと思われていたことにちなんでいる。

余談になるが、このメリルリンチが今回の金融危機で破綻し2009年1月付でBank of Americaに吸収されている。計算どおりに行かないことがわかっていても、計算された「実態以上の安心感」にすがってでもリスクを追求するのが人間の性なのだ。

☆ 現在の世界の金融システムが抱える問題とそのコントロールのための処方箋

バブル崩壊期の日本では「金融機関が破綻したのは財務体質にそぐわない放漫な貸付にあった」との前提で、貸付の見直しと金融機関の財務体質の強化が叫ばれた。貸付の見直しは「貸し渋り」を招き、その結果日本経済のデフレを招き、経済活動の縮小に伴いバランスシート不況を招来した(このあたりはリチャード・クー氏の分析に詳しい)。バランスシート不況は政府の財政支出増で切り抜けたが、日本政府のバランスシートにはGDPをはるかに超える多大の負債が計上されることとなった。

財務体質強化のほうは金融持株会社のもとでの大銀行の統合や銀行における多角的な金融サービスの提供、いわゆるメガバンク化の方向で解決が図られた。規模の経済と多角化による収益源の分散で収益を拡大しようとしたわけだ。

日本の金融行政及び金融機関がめざしたメガバンク化による収益の向上という方向は、その時代の定石にそったものだった。しかし今になってみるとメガバンク化が正解であったのかどうかには疑問が残る。

今回の世界的な金融恐慌の結果、欧米では多大の国民の税金を使って金融機関救済が行われたこと自体を問題視し「金融機関は、『破綻の際は国民の税金を使った救済の対象となる預金を預かりそれを融資にまわすだけのローリスクの公益事業的なもの』と、『破綻しても国民の税金を使った救済の対象にならないハイリスクなもの』とにキッチリ分けるべきだ」という議論が出ている。メガバンク化とは反対の方向だ。

私はこの欧米の論調の指向するものには原則的に賛成だ。銀行本来の機能である預金を集めて融資をする、とか送金手段を提供すると言う行為はなくてはならないサービスではあるが、電気を供給するとか電話サービスを提供するといった公益事業的なサービスのようなもので、日本で言えば経営のしっかりした信用金庫が、或いは往時の郵便局が、銀行よりも低いコストで十分提供できる、本来ローリスク・ローリターンのサービスだ。メガバンク化によってこれらの機能がおろそかになることのほうがよほど問題だ。

預けたり貸したりするだけの金融機関でも、預け金の運用に失敗したり貸付を無節操に拡げれば破綻する。この議論では公益事業的な金融機関は厳重な政府の管理下におくと言う前提とセットになっている。

問題は救済の対象とならない金融機関であっても、1998年9月に破綻した米国のヘッジファンドLTCMのように「規模が大きくなれば経済に影響するので政府が救いの手を伸ばさざるを得なくなる」(LTCMの場合はニューヨーク連邦銀行が融資団を組成して救済)」ことだ。非規制業種の金融機関の無節操な膨張は押さえねばならない。癌の膨張を押さえるには癌の栄養源を断たねばならない。この種の金融機関が活動する世界(=金融市場)のサイズを現実的なレベルにまで引き戻すことだ。

しかし、「実体経済と金融経済」と言ったところで、両者は密接に関連している。金融経済の作り出す利益が銀行のバランスシートを膨らませ、その膨らんだ資産が実体経済のほうに貸し出しで回っているからだ。従い、過大に膨らんだ金融経済の縮小は実体経済の縮小を伴うという覚悟が必要だ。

果たして現在の世界各国の政府当局はこの点で足並みをそろえられるのだろうか?

もう一つ大きな問題がある。「CAPMモデル」
http://mumbaikar.asablo.jp/blog/2009/05/06/4289018
で議論を始めた「過大な収益率の合理化」の問題だ(そういえば5月に書き始めた「CAPMモデル」を書き継ぐことを忘れていた)。我々はCAPMモデルと言うフィクションが示唆するような投資に対する見返り(リターン)、を所与のものとして受け容れ続けるべきなのだろうか?投資に対するリターンは、本来もっと低いものなのではなかろうか?このような過大な利益を追求する理論を駆使して経済を刺激し続けることが果たして「世のため人のため」になるのだろうか?この議論は、現代人のもつ経済的な発展指向に抵触するので更に国際的なコンセンサスを得るのが難しい。

☆ 経済以外の指標への期待

コンセンサスを得るための一つの解は、フランスのサルコジ大統領がノーベル経済学賞受賞者のスティグリッツ コロンビア大学教授やアマルティア・セン ハーバード大学教授を委員とするCommission on the Measurement of Economic Performance and Social Progress(経済的な成果と社会発展の計測に関する調査会)に諮問していたGDPに代わる発展に関する指標についての考え方をまとめた前述の報告(9/14発表)が示唆するものではないかと思う。

さすがにデカルトを生んだ国フランスの大統領。資本主義万能を説くアメリカに対し、異なる理論体系を構築して立ち向かおうとしている。

従来からGDPと言う指標では例えば市場外で提供される労働やサステナビリティーの概念が捨象されているとの批判はあった。このレポートではその批判を受け容れたうえで、

<the time is ripe for our measurement system to shift emphasis from measuring economic production to measuring people’s well being
我々の計量体系の重きを経済的な生産から人間の満足度へと移すべき時が来ている>

と問題提起し、

● 満足度を計るためには生産よりも所得や消費を見るべきだ

● 所得、消費、富の分配をもっと重視すべきだ

● 市場外で行われる人間の行動も所得の範疇でとらえるべきだ

と言った提言を行っている。フランスでは今後これらの要素を計量化し、通常の国民経済統計と同時に発表して行く由だ。イギリスやアメリカの論調をみると、このレポートの内容自体は評価するものの、その提案者がサルコジ大統領であるため、これを一種の政治パーフォーマンスだとする見方が多い。

確かに、このような指標を使えばフランスはアメリカに比べかなり高レベルの得点をし、サルコジ大統領の政治生命に資することになると言う部分はあるだろう。しかし我々の考えの方向を変えるためにさまざまな試行錯誤が行われ、それに伴って経済的に計れる生産以外の指標を使って自分の足元を見直してみる、或いはそれを通じて経済的な成果以外の部分にも価値観を移してゆくことによってのみ、金融経済の拡大の指向するものによるマインドコントロールから己が身を解放することができるのではないか。

覚えておこう。経済を尺度にして物事を考えるようになったのは、人類の長い歴史上たかだかここ200年くらいのことなのだということを。

水のなるほどクイズ2010