適材適所は世界中から2009/12/07 22:19

適材適所は世界中から

毎週日曜日になると香港島のビジネス街セントラル(中環)、ビクトリア公園、対岸の九龍半島のツィム・シャ・ツイ(尖沙咀)の香港カルチャラル・センター(香港文化中心)といった場所はフィリピン人のお手伝いさんたちに占拠される。彼女たちは三々五々と集まりビルの入り口の階段などに座って弁当を食べたりクニの言葉で(フィリピンにはメジャーな言語だけで10言語が存在する)おしゃべりに興じたりして一日を過ごす。人口700万人の香港には約14万人のフィリピン人女性がお手伝いさんとして働いている。彼女たちは香港特別行政区政府入境事務処の定める英文の標準労働契約Standard Employment Contractに基づき2年契約で香港に働きに来ている。香港には約25万人のお手伝いさんが働きに来ているので、フィリピン人のお手伝いさんはお手伝いさん人口の半分強を占めるということになる。

 

香港政府のウェブサイト

http://www.gov.hk/en/residents/employment/recruitment/domestichelper.htm

によればお手伝いさん導入にかかわる条件は以下の通りだ:

 

1.        雇主の月収15,000香港ドル(約175,000円、年収210万円)につきお手伝いさん一人を雇える。本年6月の香港人の平均賃金が月11,603香港ドル(約143,000円)なので、ずいぶん低いハードルだ。

 

2.        毎月400香港ドル(約4,700円)のEmployees Retraining Levy(従業員再教育課金)を香港政庁に対し支払う(ただし特例により20089月から2年間限定で停止されている)。

 

3.        雇主が賃金支払を保証する賠償保険に加入し、医療費を全額負担すること(香港政庁では雇い主に対して賃金と医療費の負担をまとめて保証する保険に加入することを勧めている)

 

4.        お手伝いさんは雇主の提供する場所に居住し雇い主から食事を提供される。アルバイトは禁止。週休1日で、賃金は香港政庁の定めるMinimum Allowable WageMAW、最低賃金)以上。ちなみにMAW20087月より毎月3,580香港ドル(約42,000円)。雇主が食事を提供しない場合、これに毎月最低740香港ドル(約8,600円、一食100円弱!いくら香港の屋台が安いと言ってもこれではねぇ)の食費補填を加えることが定められている。一日の実働時間を10時間、毎月の労働日を25日とすると、住居・食事付といっても時給170円ですよ!

 

これで日曜に香港島のそこここにフィリピン人のお手伝いさんたちがたむろする理由がわかると思う。日曜は彼女たちにとって週1日の貴重な休日なのだ。

 

自由主義経済を標榜する香港では公立の保育園がない(代わりに政府の補助を得ている幼児中心というものがある)とかいった事情があるにせよ、ずいぶんお手伝いさんを外国から連れて来やすいようになっていることがわかる。

 

シンガポールの場合をシンガポール政府のMinistry of Manpower(労働省)のウェブサイト

http://www.mom.gov.sg/publish/momportal/en/communities/work_pass/foreign_domestic_workers/application0/requirements/first-time_foreign.html

から拾ってみよう。

 

シンガポールは公立の保育園などが存在しているので、このウェブサイトを見ても

 

You should consider your decision to employ a Foreign Domestic Worker

(FDW) seriously. There are other alternatives such as childcare centres,

play schools and homes for the old or sick.保育園、老人ホーム、養護施設などの施設もあるので、雇主は外国人のお手伝いさんを雇うべきかどうか可否に月真剣に考えるべきである。

 

とまず最初に記載したうえで、制度の説明に入っている。

 

注目すべきはお手伝いさん候補の資質について香港に比べいろいろ条件がついていることだ。

 

シンガポールでお手伝いさんとして働くことを希望する女性(ウェブサイトを見ると女性しか想定していない)は8年間の教育を受けており、英語で課される試験に合格する必要がある。試験の設問は「主人がいないとき赤ちゃんが泣き出し、熱があると判断される場合のもっとも適当な対処法を以下4例の中から選択せよ」と言った内容だ。試験は3回まで受験できるが、おそらく日本の平均的な中卒者の(否高卒者の)英語力ではこのテストに合格できないだろう。もっともシンガポールの場合、受入国をバングラデッシュ、インド、インドネシア、マレーシア、ミヤンマー、フィリピン、スリランカ、タイに限定しているので、日本人はそもそも対象外だ。3回不合格となったものは職業紹介所の責任で帰国させられる。

 

合格者には4時間のSafety Awareness Course(安全認識コース)と言うシンガポールでの生活に関する注意事項についての研修が施される。

 

資質についての条件がアレコレついている割には、香港ほど最低賃金とか居住スペースとか休日についての条件がハッキリしていない。

 

これだけ条件がついて、労働条件のほうがはっきりしないのに、人口470万人のシンガポールでは約18万人のお手伝いさんが働いている。香港より「外国人のお手伝いさん密度」が高いわけだ。

 

香港にしてもシンガポールにしても女性の社会進出が進んでいることで知られている。社会進出が進むひとつの背景には、このようにお手伝いさんを比較的自由に雇うことができ、育児や家事についての心置きなく臨めるようになっているという側面は看過できない。日本も人材不足だ、女性の社会進出が進んでいない、と言うならこの辺香港やシンガポールの例を見習ってはどうだろう(中国でもソレナリの家庭ではフィリピン人のお手伝いさんを雇っているとか言う話を聞いた)。

 

育児や家事だけではない。香港やシンガポールでは老人や病人の介護現場でもお手伝いさんは活躍している。

 

翻って日本。もう10年以上昔の話だが妻に先立たれた。小学校に通っている子供がいるので地元の区役所に行って事情を説明すると、区の認定する家政婦紹介所からお手伝いさんを派遣してもらえる切符があるという。区役所の窓口で切符を買って紹介所に電話をかけるがどれも「今すぐといわれても適当な人がいない…」と埒が明かない。やっと一人来てもらったら数回来てから辞められた。「すぐ次の人を送ります」と言われてやってきたおばあさんはなんと味噌汁も作れない人だった。そのときは家庭科で味噌汁の作り方を覚えたばかりの息子が代わりに味噌汁を作ったが、この世に味噌汁の作り方を知らないおばあさんがいると言うのは驚きだった。と言う感じで途方にくれたことを覚えている。

 

その後今度は父が脳内出血で要介護の状態となった。「区の施設にでも」と思ってまた区役所に相談すると「ウェーティングリストが長い、家で介護しては」といわれ断念することになった。結局父の預金や年金を介護につぎ込んでヘルパーさんに来てもらうことになったが、このヘルパーさんが長続きしない。平均して年23回入れ替わると言う感じだ。そのたびにイチイチ新しいヘルパーさんにあれこれ説明し、来たての頃はその通りのケアがなされているかフォローしなければならない。

 

確かに現在不況で家政婦やホームヘルパーになろうという日本人が増えてきたので多少状況は変わってきたのかもしれない。しかし、単純に人を充てればよいという問題ではない。私の例から明らかなように、日本人の中だけで家政婦やヘルパー要員を求めれば「家政婦やホームヘルパーにでもなろう」と言う本来家政婦やホームヘルパー向きでない人が相当数混じることを覚悟する必要がある。

 

香港やシンガポールの例がベストだとは言わない。雇用条件も決して良いとはいえない。しかしそれにもめげず「行こう」と言う供給側の圧力があるのが現実だ。働きたいという人がいて、その人の供給する労働に対するニーズがあるなら柔軟に対応している香港やシンガポールの姿勢は見習うべき点がある。

 

適材適所という言葉がある。家政婦やホームヘルパーに不適格な人々は社会のもっと別な分野で活用することを考え、家政婦やホームヘルパーの不足分は外国人労働者をどんどん受け入れて補充した方がこれから高齢化する日本のニーズにあっているのではなかろうか?

小国日本の歩むべき道2009/12/13 22:52

「日本は東洋のスイスたれ」とは第二次世界大戦終戦に伴い、日本占領軍の司令官として進駐してきたマッカーサーの言葉だとされる(彼がいつ、英語で何と言ったのか、まだ確認していないが)

「日本は東洋のスイスたれ」とは日本の第二次世界大戦敗北に伴い、占領軍の司令官として進駐してきたマッカーサーの言葉だとされる(彼がいつ、英語で何と言ったのか、まだ検証できていないが)。彼が日本に進駐してきてから64年、今世紀が中国、インドの世紀となることが見通せる今日、この言葉は非常に含蓄のある言葉であると思う。

 

少々乱暴な比喩をお許しいただきたい。オランダ、スイス、スウェーデンと言ったヨーロッパの代表的な小国と、イギリス、フランス、ドイツと言ったヨーロッパの代表的な大国の比較をしてみる。数字は2007年の国連統計から取得した(国連の人口統計が2007年までしか整備できていないため)。

 

 

米$建名目GDP

人口

(千人)

一人当

名目GDP

イギリス

2,802,331,731,491

60,975

45,959

フランス

2,593,146,396,127

61,707

42,023

ドイツ

3,316,145,147,217

82,263

40,312

オランダ

776,124,959,368

16,382

47,377

スイス

426,655,125,996

7,551

56,502

スウェーデン

453,318,133,329

9,148

49,553

 

2007年は金融バブル絶頂期のイギリスと言う条件を割り引いて考えるとイギリス、フランス、ドイツの一人当GDPはおおよそ4万ドル台前半であるのに対し、オランダ、スウェーデン、スイスの一人当りGDPはざっと見5万ドルだ。人口はこれまたざっと見で、小国が大国の1/5~1/10。

 

アジアを見てみよう。

 

 

米$建名目GDP

人口

(千人)

一人当

名目GDP

日本

4,380,378,266,794

127,772

34,283

中国

3,460,287,550,530

1,324,655

2,612

インド

1,142,337,882,679

1,134,023

1,007

スリランカ

32,347,508,676

20,010

1,617

 

日本の一人あたり名目GDPが圧倒的に多いことは別格として(それにしてもいったんは追いついていたはずのヨーロッパの国々に比べてずいぶん見劣りしますね)、日本の人口が中国、インドの約1/10であることがお分かりいただけると思う。ここにスリランカをのせたのは、インドの南の海上の、一般には紅茶と宝石と美しい自然以外はあまり印象がないこの小国の一人当GDPがインドの1.6倍あるということを示したかったからだ。

 

小国はうまく立ち回れば近隣の大国より高い所得水準を維持できるのだ。

 

これまで日本はアジアの中では一足早く近代化や工業化を果たし、第二次世界大戦に負けるまでは、外国の軍隊に駐留され国政に干渉されることもなくやって来た。そのおかげもあって、周辺国より一足早く経済の規模が大きくなり、自国を大国だとかリーダーだとか思うクセがこの百年の間についてしまった。戦後になっても「日本が先頭に立つ雁行型の経済成長」などというアジアの経済成長モデルが、日本人の間でまことしやかに語られていたのはそのよい例だ。しかし21世紀の現在、ここ百年余りの日本の立場が変わらざるを得ないことを認識しなくてはならない。

 

日本全体の経済規模は早晩中国に抜かれる。この調子で行けばいずれインドにも抜かれるだろう。しかしそのことで大騒ぎすることはない。そもそも中国やインドは歴史的にアジアの大国なのだ。そして日本は歴史的には中国の周辺でうまく立ち回り安定と繁栄と、平均すれば中国より高い生活水準を享受してきた国なのだ。その状態に戻るだけの話だ。早めにその認識に立って「小国日本」としての国の将来設計を行い、その設計図にそった政策を実行してゆかねばならない。

 

ただ、江戸時代のように鎖国はできない。今の日本は世界の政治や経済と密接につながっており、門戸を閉ざして生きてゆくことなどできないのだから。

 

門戸を開放したままで安定と繁栄を享受するにはそれなりの努力が必要だ。大国を出し抜いて生き続けるだけの知恵がなければならない。そのためには大国がやりそうなことを冷静に予測し、絶えずその先や、大国が行けない方向へ行く努力をしなければならない。大国が不器用にやることを、より効率よく、大国が真似できないレベルで処理して行くのはもちろん、大国がなかなかやれないことをやらなければならない。

 

永世中立を標榜し、それを利用して大国には評判が悪い秘密銀行口座を編み出したスイスは大国の狭間でうまく立ち回ってきた国の良い例だ。永世中立なので大国内やその間の利害からは独立しているという建前を利用し、大国に置いておくのがはばかられるお金を一手に引き受けてきた。しかし今更秘密銀行口座を持つ特殊な金融センターになれといっているのではない。アジアではシンガポールのようにいち早くその道を歩んでいる国がある。今更後追いしても追いつけるものでもないし、そもそも現在の世界では銀行口座の秘密を維持しきれなくなってきているとの状況認識が必要だ。

 

賢く立ち回っているもうひとつの例を示そう。インドの港湾がさまざまな事情から非効率な運営を続けるなか、天然の良港スリランカの首都コロンボの港は港湾拡張と設備の近代化に通して貨物の処理能力を飛躍的に向上させ南アジアにおける貨物の集散拠点としての地位を確保するようになった。’70年代のコロンボ港は「船足が伸びたので中東やヨーロッパと極東がノンストップでつながるようになり、中継点の存在意義が薄れたので先行きが暗い」といわれていたものだ。

 

小国日本は日本なりの特色の出し方を模索すべきだ。そのためには、独立当時は周辺国に比べ多少教育程度が高めの、勤勉な国民くらいしか資源を持たなかったにもかかわらず、2007年には一人あたりGDPでは日本を追い抜いたシンガポールの例をよく研究する必要がある。

 

小国であると言うことは自分の国の言葉で語っていても誰も聞く耳を持ってくれないということだ。小国の国民は人の国の言葉をあやつる能力を持たなければならない。これからの世界では英語と中国語のいずれか、できれば両方があやつれたほうが良い。「あやつる」ということは最低限会話ができるということだ。願わくば人の国の言葉を繰って人を動かすことができるレベルまでほしいところだ。

 

ヨーロッパの小国を見ればよい。国民のほとんどはバイリンガルだ。否三ヶ国語を駆使するトライリンガルも普通だ。シンガポールにしてもスリランカにしても国民は英語に堪能だ。シンガポールの場合、もともと華僑を中心とした国だったので、漢字は繁体字、話す言葉は広東語や福建語や客家語だった。母語が異なる中国人どうし英語で話すことも多かった。しかし今やシンガポールの学校で中国語は普通話(北京語)を簡体字で教えている。ちなみに古い世代のシンガポール人の代表格であるシンガポールの国父リー・クアン・ユー(李光耀)の第一言語は英語だ(厳密には客家語だが実際は英語)。

 

そういうことを頭に入れてから今の日本を見ると、誠に歯がゆい限りだ。日本人一般の英語力不足は、過去何十年にわたり論じつくされているがいっこう改善していない。受験勉強のせいで教育は一定のパターンをおぼえさせることに主眼が置かれている。このような教育では大量生産ラインで皆と一緒に働いたり、カイゼンすることはうまくなるかもしれないが、画期的なことを思いつく人材は生産できない。否そのような人材の芽が摘まれることになる。

 

しかしここにヒントがある。過度の受験競争とそれに伴う受験勉強は日本だけの問題ではなく、なべて儒教文化圏の国で見られる現象だ。

 

その儒教文化圏の国の多くは「モノ造り」を行いそれを輸出することによる国づくりをしていることに注目すべきだ。儒教文化圏の外にあるインドは客観的に言ってモノ造りはあまり得手ではない。そして「中国とインド(2/2)」

http://mumbaikar.asablo.jp/blog/2009/10/09/4623639

でも書いたようにずいぶん異なる国づくりをしている。

 

我々日本人は「モノ造り」と言う概念に酔う傾向がある。日本の「モノ造り」は輝かしいレベルにあることは間違いない。しかし「モノ造り」酔いをする結果、カイゼンのためのカイゼンをやる傾向があることも忘れてはならない。日本の製造業は高い設備投資を維持して、「日本品質」を維持してきていると言うが、韓国はもとより中国やベトナムも「モノ造り」にいそしんでいるのだ。彼の地が日本のみならず世界の「モノ造り」現場を離職した技術者たちの技術指導もあって「日本品質」の製品ができ、或いは「日本品質」ではなくても十分使用に耐える品質の製品ができていることは、ほかならぬ日本の、そして世界の消費者が知っている。

 

「モノ造り」をするなといっているのではない。もっと賢い、もうかる、つまりは付加価値の高い「モノ造り」に特化しなければならない。これまでの「モノ造り」のための設備投資のうち結構多くはそろばん勘定にあわない、自己目的化した「モノ造り」に費やされた部分だということを認識する必要がある。

 

くり返そう。周辺国と同じことをやっていてはダメだ。今のままのやり方を続けていれば、日本はゆくゆくは中国やインドを筆頭とする雁行型の経済成長の一翼を担うが、群れの足手まといの老鳥となるだけだ。日本には雁の群れの横を悠々と飛翔する存在になってほしい。

 

そのためには、小国日本は「モノ造り」にいそしむグループから一頭地を抜いて先回りしなければならない。時としてカイゼンは他国に任せ、新たな産業や事業分野を作ってそこに参入して行く勇気が必要だ。その新たな分野を大きく展開させるには、外国の市場に打って出る必要がある。外国の市場に打って出るには、任天堂のように外国に通用するシステムを自前で作る能力が必要だ。小国日本にはもっと多くの任天堂が必要なのだ。そのために我々はもっと自分の頭で論理的に考えたり、それを文章にまとめたり、それを他人に口で説明したり、新たなことに挑戦するトレーニングを積まねばならない。

 

そのような方向を日本が明確に認識して進み始めるのはいつになるのだろう?

 

The Red Corridor(赤い回廊)2009/12/22 01:40

インド亜大陸東側の内陸部の南北千数百キロ余りのベルト地帯はRed Corridor(赤い回廊)と呼ばれている。この地域ではNaxaliteナクサライトといわれる極左勢力による武力闘争が活発で、しばしば地方政府や警察との衝突を繰り返している。「インドの総選挙結果」
http://mumbaikar.asablo.jp/blog/2009/05/19/4313326
でも書いたように、彼らの活動の結果総選挙がきちんと実施できない地域がでたりしている。

ナクサライトは1967年に西ベンガル州北部のNaxalbariナクサルバリ村でおきた農民運動にインド共産党の左派分子が主流派から分裂して加担し、そのまま先鋭化したものだ。その後、この種の運動にはよくあることだが、組織は分裂を繰り返している。多くのグループは毛沢東主義を標榜しており、中国の対外秘密工作機関である国家安全部が複数のナクサライト組織を援助していると推定されるため、インド政府がナクサライトの鎮圧に動く事情は十分に理解できる。

現在インド政府はNaxalite鎮圧のためOperation Green Hunt(緑の狩作戦)と言われる作戦を展開している。この作戦が大々的に実施できるようになった背景は隣国パキスタンがインドとの国境沿いに展開していた兵力の一部をタリバン勢力との戦いのため同国北西部に移動した結果、インド軍も兵力の展開を見直すことができるようになったからだ。「パキスタンはfailed stateか?(2/2)」
http://mumbaikar.asablo.jp/blog/2009/04/15/4245648
でも書いたが、パキスタンはインドを想定敵国のトップにすえているので、伝統的に主たる兵力を東部戦線(つまりはインド国境沿い)に展開している。その兵力の一部が移動したのだ。

赤い回廊の問題は単に極左運動とインド政府の対立という次元では捉えられない。そもそも何でこのような極左運動が40年以上も継続できるのかというところから問う必要がある。少し寄り道になるがインドの先住民の話から説き起こそう。

インドの総人口の約8%強がAdivasiアディワシと総称される人々だ。アディワシはインド亜大陸の原住民であるとされるが、以下で説明するように厳密には「原住民」と言うよりは今のインドの主流の人種の一足先にインドにやってきた先住民という感じだ。

原住民とか先住民とか言う以上、インドにはいろいろな人種や民族が流れ込んでいる。インド亜大陸部(地図で見ると逆三角形になってアジア大陸から半島のように突き出ている部分)の原住民はNegritoネグリトと言われる肌色が濃く縮毛の人々とされ、彼らの後から肌色が濃く直毛のAustraloidオーストラロイド人、同じく肌色が濃く直毛のDravidiansドラビッダ人(南インド4州を中心に住む人々)、肌色が薄いAryansアーリア人(北インドを中心に住む人々)の順で入ってきたと言うのが一般的な学説だ。

ネグリト人は人類学上はいわゆる黒人とは異なり、マレー半島やフィリピンにも存在しているが、オーストラリアのアボリジニとの関連については学会での議論の決着がついていない。インドのネグリト人はもはやインド洋上の孤島アンダマン・ニコバル諸島に少数の部族が残存するだけとなっている。現在のアディワシの主体はオーストラロイド人だ。

尚、この三つの人種の進入があまり進まなかったインド東部の州(地理的にはバングラデシュシュ以東のインド)には我々日本人と姿形が類似するにモンゴロイド人が住み着いており、この地域では今日に至るも原住民の比率が高い。その昔文化人類学者の中根千枝女史が日本社会との対比で研究したのはこの地域で、この地域の一部では日本の納豆と同じものが日常に食されている。

アディワシはインド憲法The Constitution of India第244条の(1)に規定される別表第5によって自治や居住地を保証されているが、「中国とインド(2/2)」
http://mumbaikar.asablo.jp/blog/2009/10/09/4623639
で説明したようにインドは連邦制をとっており、各州には相当の自治権があるため、州ごとのアディワシ保護に対する取り組みには相当の濃淡がある。

アディワシの一部は開発の手が及んでいない森林地帯などに住み、狩猟、採集、小規模な焼き畑農業などに従事しているが、NGOなどと組んで組織化され紅茶栽培などに従事している部族もある。総じて言えば、多くの少数民族の例に漏れず、主流の民族の影で偏見や差別や圧迫を受けながらひっそり暮らしている。

圧迫の最たる例が彼らの住む地域の略奪だ。インド憲法は大統領が国会の議決に基づきアディワシのScheduled Area占有地を改廃することを認めている。占有地があまり経済的な利用価値のない不便な地である限りアディワシの権利が脅かされることもないが、いったんその地に鉱物資源があると認められたりして土地の利用を画策する資本家がでてくるとアディワシにとっては厄介なことになる。資本家と関係の深い国会議員が動き回って国会で占有地廃止を可決したり、更に手っ取り早く暴力を使ってアディワシを占有地から追い出すという手を使って、アディワシの権利が踏みにじられる事態となる。アディワシの間には、このような圧迫を受けてきたことに起因する根強い公権力に対する不信がある。

アディワシ側の不信が、主流の住民との対立に発展するための起爆剤は大きく言って三つ存在する。

ひとつはアディワシに積極的に布教活動を行うキリスト教(特にプロテスタントの宗派にこの傾向が強い)とその結果増え続けるクリスチャンのアディワシと、そのことを快く思わないヒンズー教を信仰する大多数のインド人との間の緊張だ。元々クリスチャンのアディワシ、固有の宗教を信仰するアディワシ、ヒンズー教徒の他のインド人、といった複雑な対立の構図が存在しているところに、最近火に油を注ぐようにヒンズー教徒の間でHindutvaヒンドゥトゥヴァと言われるヒンズー教至上主義の動きが顕著になってきており、キリスト教徒が多いアディワシとの対立が先鋭化することになる。

もうひとつはナクサライトがアディワシの状況に着目し、アディワシに対する圧迫が顕著な地域でアディワシ社会に入り込んでいる事実だ。前述のナクサライトが活動する赤い回廊と「現に圧迫を受けている」とされるアディワシの住んでいる地域とがかなり重複しているのはこの間の事情によるものだ。政府は緑の狩作戦の成果として「ナクサライト○○人を殺害」と言った戦果が発表する。しかしその戦果のなかにはナクサライトとは無関係な無辜のアディワシがこの中に多数含まれていることは認識しておいたほうが良いだろう。

三つ目は最近のインドの経済発展に伴う資源開発や工業用地確保の必要性の拡大だ。これまで人が見向きをしなかったアディワシの居住地に最近鉱物資源がみつかったりしている。

このような背景から赤い回廊地帯では、ナクサライトの活動の活発化、軍による鎮圧作戦、巻き添えとなるアディワシ、彼らの軍に対する反目とナクサライトへの支持、更なる軍の鎮圧作戦と言う負の連鎖に陥っていると言える。

最近参加したインド投資セミナーで講師が盛んにインドの中小都市への投資を呼びかけていたが、中小都市のうちいくつかはまさにこの赤の回廊内にあるか、隣接しているかなので、中小都市への投資を考える場合このようなセキュリティー面からの検討も必要だ。

インドが経済発展を続ける過程で、社会の底辺に位置しているアディワシや非カースト層が自らの権利に目覚める一方、社会の主流層の側からアディワシ社会に対する圧迫が更に強まる構図はインドの政治的なリスクとして現実に存在している。

インド政府には武力鎮圧に走る前にその背景にあるこれまでの行政の、社会の弱者に対する無策を十分に反省し、武力による弾圧よりは、アディワシの間に蓄積された不満の解消のための社会経済的な政策に注力することを期待したい。

結婚式二題2009/12/30 02:07

民主党政権誕生3ヶ月目にあたってのコメントを書こうと思ったが、年末休暇に入ったことでもあり、あまり肩のこらない話を書いて今年は終わりにしたいと思う。

「インド人の知人の息子の結婚式に招待されたので…」といって有給休暇を申請したら、同僚から「いいなぁ~歌と踊りなんでしょ」といわれたことがある。相手はカラオケ以外はオヨソ歌と踊りなんか関係なさそうな御仁だ。私を招待したインド人の知人はPunjabiパンジャブ人で、パンジャブ人の結婚式は確かに歌と踊りだ。従い会社の同僚の感想は、私が参加しようとしていた結婚式に限っては当りだが、インドの結婚式がすべて歌や踊りというわけではない。

パンジャブ人の結婚式がどんなものか見たければインドの著名な女流監督Mira Nairミーラ・ナイールの2001年ベネチア映画祭金獅子賞受賞作Monsoon Wedding(邦題「モンスーン・ウェディング」)を借りて見ていただければよい。この映画が日本で封切られたのは例によって遅れに遅れて2002年8月だ。そのことはさておき、日本で封切り当時「終わりはインド映画らしく歌や踊りで」といった内容の映画評が散見されたが、ミーラ・ナイール監督はもともと極めて非インド的な(つまり歌や踊りを伴わない)映画を製作する監督だということをこの日本の映画評者たちは不勉強にもご存じないようだ。「モンスーン・ウェディング」の締めくくりが結婚式の歌や踊りだったのは、舞台が首都デリーで、そのデリーに多いパンジャブ人の家庭の結婚を取り上げたからだ。

さて、インドの結婚式は、新郎新婦の家族の社会的な地位にもよるが、おおむね何百枚とか何千枚とかの招待状を配り、何百人もの招待客が披露宴に現れ、さまざまな儀式を伴うので一週間かそれ以上がかりで、という部分は全土共通だ。この儀式というのがインドの地方地方で相当異なり、知人の令息の場合は花嫁が南部のTamil Naduタミール・ナドゥ州出身のTamilタミル人だったので、両者の儀式が合体する珍しいものになった。

パンジャブ独特の部分は新郎が金糸銀糸で飾り立てられた白馬にまたがって新婦を迎えに来る部分。新郎が騎乗する白馬は、ブラスバンドが晴れやかな曲を吹奏し、新郎側の親類、縁者、客が踊りながら結婚式場まで先導する。伝統的には新郎のいる村から新婦のいる村へこの行列が行ったのだろうが、デリーなどの都会では披露宴会場のホテルの前数百メートルをこの行列が通るだけだ。式の後新郎新婦が車に乗って式場から出てゆく。本来なら一定日数の後、ことの次第を両親や親類縁者に報告するため戻ってくるのが、今は披露宴の会場を出た車はあたりを一周してから結婚式の参加者一同の歓迎を受けながら会場に戻ってくる。

タミル・ナドゥ独特の部分はクリシュナ神の結婚のときの伝承にあやかって新郎新婦が一緒にブランコに乗る部分と、新郎新婦がそれぞれの家族や友人にかつぎ上げられてお互いに花輪を掛け合う部分。新郎新婦は徐々に高く担ぎ上げられ、最後に花輪をかけた側が家庭の実権を握るというのが言い伝えだ。

実は知人の令息の結婚に関してここに書いたこと一切は、ニューヨーク南の郊外の式場で行われたことで、飾り立てた白馬、その馬のくつわを取る馬丁の装束、ブランコ、結婚式を執り行うヒンズー教のお坊さん、結婚式から披露宴までの一切を撮影したインド系アメリカ人のカメラマン、すべてアメリカでアレンジされたものだ。「アメリカにおけるインド人社会の浸透ぶりもかくや」といったところだ。

さてインドにはdowry持参金制度が根付いている。男子が嫁を取れば、持参金がごっそりついてくるし、結婚式の費用も基本的にはすべて新婦側持ちだ。何百人もの招待客をよんで、一週間にわたる儀式をするのだから結婚式には相当お金がかかる。このためもあってインドでは貧しい家庭で女の赤ちゃんが生まれると両親が乳児をミルクに溺れさせて間引いてしまうという事件が後を絶たない。件のインド人の知人は一男一女の父親なので「一勝一敗だ」といっていた。「モンスーン・ウェディング」でも花嫁の父が金策のためゴルフ場でラウンドしながらあちこちに電話をかけまくるシーンがあったが、あのシーンを見て身につまされたインドのお父さんはたくさんいただろう。

それにしてもパンジャブ人の結婚式は本当に派手で楽しい。「モンスーン・ウェディング」では披露宴司会役の叔父さんが宴席の開始を宣言すると共に踊り上手の親類の踊りを皮切りに、それが終わると参加者がどんどん踊りだしというシーンがあるが、実際の結婚式もおおむねそのとおりに進行する。知人の令息の結婚式ではまず新郎側家族若手によるボリウッド映画式のダンス(皆さん一週間くらい練習したらしい)の後は参加者一同老若男女入り乱れての踊りとなった。デリーで参加したことがあるもう一組のパンジャブ人の結婚式では、新郎新婦の出会いをボリウッド式の踊りで表現すると言う趣向の後、これまた参加者一同老若男女入り乱れての踊りとなった。この結婚式の振り付け、インドの経済成長とともに年々派手さが増している由だ。どっしり座っているおばあちゃんが「おもわず」といった感じで立ち上がって踊りの輪に加わるのを見ると、パンジャブ人の間では本当に結婚式の踊りの輪が根付いているんだなぁと思う。

さて話が変わって、東南アジアの華僑。私の甥がインドネシアの華僑のお嬢さんと結婚することになり、その結婚式のためジャカルタに行ったことがある。式次第にtea ceremonyと書いてあって、通常tea ceremonyとは日本の茶道の英訳のため「なんじゃろう」とおもっていたら、新郎新婦が両家の家族の主だった面々に跪いてお茶を献上するという儀式だった。この辺は「いかにも儒教的な」という印象を受けたが、さてジャカルタの一流ホテルの宴会場を借り切っての披露宴。何百もの招待状を配って何百人もの招待客をよぶところまではインドと同じだった。ちょっと趣向が違うのが取引先からの花輪が続々とホテルに届き、ホテルの正面玄関付近に並んだことだ。ところが披露宴のほうは、両家の紹介以外はもっぱら立食パーティー。一応ダンスミュージックがかかったので踊ったりしてみたが、観客のほとんどは談笑しているだけで踊りの輪に加わらない。司会者がOh, oh, look at the Japanese guests dancing, come on ladies and gentlemen join the dance(日本からのお客さんが踊ってますよぉー、皆さんも踊ってください)と声をからす始末。そのうち新婦側の叔父さんがカラオケで自慢ののどを数曲披露した。「さすが日本の会社と取引関係のあるインドネシアの華僑」と思ったり、「ああ華僑はカラオケ文化なんだ」と妙に感心したり。日本的、というか日本の本土的。沖縄の結婚式は素人芸能オンパレードと聞いていたので「より沖縄の文化に近い東南アジアなら…」と期待していたのが完全に外れた。新婦の親族にシンガポール人がいたので、シンガポールの結婚式の様子を聞くと「まあ同じようなものだ」とのこと。聞くところによると中国の結婚式も「歌や踊り」にはならないらしい。香港の結婚式にいたっては披露宴の会場の一角に雀卓が何卓か並んでいて、麻雀好きのお客はそちらに直行するときく。

さて、これを読んで読者はどちらの結婚式のほうに出たいと思うだろう?「出たい=見たい」なら、まあ間違いなく先般の私の会社の同僚のごとく華やかなサリーが舞う、歌や踊りで盛り上がるパンジャブ人の結婚式だろう。しかし「出たい=参加したい」なら?

歌や踊りに参加する場合、水割りの入ったグラスを片手に会場を回るのとはちょっと異なる、踊り疲れたときにちょっとフロアを抜け出して…という演出も必要だ。私の世代(=団塊の世代)の多くの日本人にとってこれは結構シンドイことなのではなかろうか?で、若い世代や如何に?ひょっとして「ヨコメシはシンドイから水割りの入ったグラス片手に会場を回るのだってトテモトテモ、日本人を探して群れる」なのだろうか?

皆さんよい新年をお迎えください。

水のなるほどクイズ2010