クリケットの世界2010/08/10 21:19

「世界でもっともポピュラーなスポーツ」といえば誰しもが「サッカー」というだろう。蛇足になるが「サッカー」はアメリカ語だ。アメリカ国外でアメリカン・フットボールとよばれるゲームのことをアメリカでは単に「フットボール」といい、これと識別するために本場ヨーロッパや南米でフットボールとよばれるゲームのことをアメリカでは「サッカー」という。どうして日本でアメリカ式の呼称が定着しているのかは謎だ。

「それではサッカーに次いでポピュラーなスポーツは?」と問われれば、多少考えの深い日本人は「ラグビー」というだろう。ラグビーがポピュラーなヨーロッパや中南米の一部でも同じような反応だと思う。

そのようなラグビー派の人々には「エッ?」かもしれないが、世界でサッカーの次にポピュラーなスポーツは日本でおよそなじみのないクリケットだ。

北イングランドBamburghバンバラの草クリケット風景

考えてみよう。ラグビーがポピュラーな国としては旧英領諸国(ただし南アジアではかなりマイナーなので除南アジア諸国)、ヨーロッパ、中南米の一部、多少おまけして日本というところだが、クリケットがポピュラーな国は旧英領諸国全般だ。この旧英領諸国全般というくくり方に注目してほしい。人口が15億を超えるインド、パキスタン、バングラデシュ、スリランカの4カ国ではクリケットは昔日の日本の野球以上の人気も持つ国技だ。「15億人とヨーロッパ、中南米の一部、の人口のどちらが多いか?」といえば答は自明だろう。

野球同様投球されたボールをバットで打つゲームのクリケットだが、本来のクリケットは勝敗が決定するまで数日を要する、およそセッカチな人向きではないゲームだ。多少イギリスのことを知っている人が「クリケット」といわれてイメージする「白いユニフォームを着たチームが緑の芝生の上でのんびりボールを投げたり打ったりするゲーム」はこのあたりから来ていると思う。おそらくこれが日本やアメリカでクリケットがポピュラーにならなかった最大の理由だろう。後述するTwenty20がもっと早く開発されていれば或いは日米もクリケットを国民的球技とする国になっていたかもしれない。

クリケットのルールの詳細は日本版Wikipediaにも記載があるのでそれを参照願いたいが、私なりの独断を加えて簡単に解説すると以下のようになる:

1チームの選手の数は11名。球場の中央にはWicketウィケットという三本の木の丸棒を地面に刺したゲートが二つ、22ヤード(20.12m)の間隔で立っている。丸棒は三本で高さ28インチ(71cm)幅9インチ(23cm)になるようセットされており、三本の丸棒の頂上にはbailベイルという木の丸棒がのっている。各ウィケットの前にはバッターが各1名立つ。

バッターの役割はウィケットを崩すことを狙って投手から投球されるボールからウィケットを守ることだ。ウィケットが崩されればバッターはアウトとなり次の打者と交代する。

ウィケットを守る最良の方法は投球を打ち返すこと。フィールド外縁部の観客席の内側に置かれたboundaryバウンダリーという縄を、野球のホームランのようにノーバウンドでボールが越えれば6点。ゴロでもボールがバウンダリーまで守備側に捕球されずに届けば4点。それ以外の場合は打球が守備側に捕球されbailが落とされる危険が及ぶまでの間二人のバッターは二つのウィケットの間を往復する。一方のバッターが出発したウィケットから反対側のウィケットに到達すると1点になる。

ピッチャーの投球でウィケットが倒されれば、或いは捕手が自チームからの投球やバッターからの打球を捕球してベイルを落とせば、或いはフライになった打球を守備側のチームの選手が捉えれば、バッターはアウトになって次の打者と交代する。

ピッチャーの投球数が所定の投球数に到達した時点で攻守交代となる。クリケットが長丁場になるのは投手による投球の総数が制限されているワールド・カップ試合でも投球数が300回もあり、一方のチームの投球が終わって得点が決まると、今度は相手方がまた最大300回投球して得点を積み重ね、その結果を競うため、試合が1日とか場合によっては2日がかりになるためだ。他のスポーツのように短い時間でまとまりがよく収まる試合展開ができるよう2003年に開発されたのがTwenty20という投球総数が20回に制限された形のクリケットだ。Twenty20の場合3時間程度で試合は終了となる。Twenty20の商業化がもっとも成功しているのがインドだ。

インドにはIndian Premier League (IPL)という8つ(来シーズンからは2チーム増える予定)のインドの都市名を冠したチームがTwenty20クリケットを競うリーグがある。IPLのチームを組成するにはBoard of Control for Cricket in India (BCCI、インド・クリケット管理委員会)が主催する入札に参加してフランチャイズを獲得する必要がある。IPLの選手は世界各国から集められている(ただし現在パキスタン出身の選手は在籍していない)。ウィキペディア英文版のIndian Premier Leagueの記事によれば直近のフランチャイズは3.333億米ドルで落札されたとのことだ。ちなみにアメリカの経済誌フォーブスによればメジャーリーグ・ベースボールの平均フランチャイズ価格が2009年に4.91億米ドルだったとのことなので、IPLが日本のプロ野球をはるかに超える興行的に成功した集金マシンとなっていることがわかる。

インドのことを多少ご存知の方ならこのあたりで「そんなにお金が動くならIPLに関してはヤミ金など、さまざまな噂が存在するのではないか?」と思われるだろう。残念なことにこれは噂のみならず事実も結構明るみに出ている。

代表的なのが今年4月にクリーンなイメージでインド政界の若手ホープとされたShasi Tharoorシャシ・タルール外務担当大臣が、女友達(許婚だともいわれる)が関与する南インドのケーララ州コチ市のIPLフランチャイズ獲得に関与したことが明らかになり、政界を追われたニュースだ。インターネット時代らしく、この話に足がついたのはIPLをまとめ上げてコミッショナーの座に着いた
Lalit Modi ラリット・モディのツイッター上での「つぶやき」の結果だ。モディはアメリカ留学中に刑事訴追を受けたとか、3つのIPLチームに出資しておりIPLは彼の一つの事業として理解したほうがよいとか、それだけでブログの記事が一本かけるほど話題の多い人物だが、ここでは彼がこの「つぶやき」が原因でIPLコミッショナーの座を追われた事実だけ記しておこう。

こんなにお金が集まるとほどインド亜大陸地域におけるクリケット熱は強い。もう一つ例を上げよう。

2001年に上映されたインド映画Lagaan (「年貢」の意。日本ではDVDのみソニーから「ラガーン」という題名で2003年に発売)は2002年のアカデミー賞外国映画部門候補作になった映画だ。

村人打席に立つ

ストーリーは

旱魃に苦しむインド中部の村で、その地の行政をつかさどる英国人の施政官と村の若者の間で「村のチームがイギリス人チームにクリケットの試合で勝ったら年貢を3年間免除する。ただし村のチームが負けたら年貢は3倍だ」という賭けが行なわれ、クリケットのことなど一切知らなかった村人のチームが、主人公の村人の青年に恋心をいだくようになる施政官の妹の助けもあってクリケットの腕をあげイギリス人チームをクリケットの試合で打ち負かす、

というものだ。映画の後半はこの村人チーム対イギリス人チームのクリケットの試合の一進一退に費やされ、投打の駆け引きなどクリケットのことを知らないものでも手に汗を握る試合展開が連続し、自然とクリケットのことがある程度わかるようになるし、クリケットが、決してのんびりとしたゲームでないこともわかる。インドにおけるクリケットの人気を反映して、Lagaanはインド国内で興行的に大成功を収めたが、インド国外でも相当の成功を収め最終的には4億ルピー(約8億円)の興行収入を上げている。

ネタバレ承知で書けばLagaan のクリケットの試合では、後攻となった村人チームの中心の若者がホームランを打ち、英国人の施政官がそれをバウンダリーの外で捕球したため(野球で言うと守備側の選手が観客席でホームランを捕球したようなこと)村人側に6点が入り、村人側が僅差で英国人チームに競り勝って映画がエンディングになだれこむ。もっとも映画に出演していたイギリス人の俳優クリス・イングランドの書いた製作参加記Balham to Bollywood (バラムからボリウッドへ)を読むと、映画製作中の英印スタッフどうしの親善試合ではいつもイギリス側が勝っていた由だ。

南アジアとクリケットにちなんで話題をもうひとつ。

Muthia Muralitheranムッティア・ムラリテラン選手はスリランカのみならず世界のクリケット界を代表するクリケットの投手で、本年7月22日に史上最多となる800人の打者を打ち取るという偉業を達成して引退した。800番目に打ち取ったのはスリランカ対インド戦で打者となったインドの選手で、この選手の上げたフライをスリランカ側の選手が捕球することで達成された。

ムラリテラン選手は祖父の代にインドからスリランカに移住したタミル人で、かつ彼の在籍中はスリランカのナショナルチームのなかでは唯一のタミル人だった(スリランカの民族構成については「スリランカのこれから」
http://mumbaikar.asablo.jp/blog/2009/04/22/4259902
ご参照)。このような出自にもかかわらずスリランカのナショナル・クリケット・チームの重要な構成員として活躍し、チームメンバーからもスリランカの国民からも熱い声援と期待を受けたムラリテラン選手のような存在が増えてゆけばスリランカの民族融和も進むことだろう。

サッカーがもはやイギリスのスポーツではないように、クリケットはもはやイギリスのスポーツではない。「世界で二番目にポピュラーなスポーツ」だけあって、International Cricket Council (ICC) 国際クリケット連盟が2009年にアメリカのプロスポーツにならって発表したICC Cricket Hall of
Fameのメンバーを出身国別に見ると、イングランド22名、西インド諸島13名、オーストラリア11名、インド、パキスタン各3名、南アフリカ2名、ニュージーランド1名 だ。野球のHall of Fameはアメリカのメジャーリーグの元選手に限定されているのと対照的な構成だ。このあたりその圧倒的な存在感によって国際試合開催についても強力な影響力を行使する米国メジャーリーグの意向に左右される野球と、世界各国で展開するローカルな試合をナショナルチーム間の戦いという形に昇華させながら発展してきたクリケットの差を感じる。

クリケットの世界 追録2010/08/31 20:23

「クリケットの世界」
http://mumbaikar.asablo.jp/blog/2010/08/10/5278800
でインド亜大陸の諸国ではクリケットが非常にポピュラーなスポーツであると書いた。モンスーンの記録的な降雨によるインダス河流域の大氾濫で数千万人規模の被害が出ているパキスタンで、今度はクリケットの八百長疑惑で文字通り国が揺れている。

事の起こりは8/29にイギリスのスポーツ紙が、当日が最終日となった5日間にわたるクリケットのイングランド/パキスタン戦でパキスタン側の八百長を仕切ったとされる人物とのインタービューを現ナマが動く現場の実写を含めて報道したことだ。

どのような八百長が行われたのだろう?

投手がマウンド上の一定位置から投球する野球と異なりクリケットのbowlerボウラー(投手)は投球する前に助走する。そしてウィケットから20ヤード2フィート(18.9m)離れたpopping creaseポッピング・クリースといわれる線と、22ヤード(20.1m)離れたbowling creaseボウリング・クリースといわれる線との間で、つまり6フィート(1.8m)の幅の中に両足がある状態で投球しないとno ballノー・ボール(野球で言うボール)となる。野球のボールと異なる点はノー・ボールになると一点が加算されることだ。

八百長の基本形は試合結果を「調整」してしまうことだ。しかしクリケットのように試合が長丁場になるゲームで、試合結果を調整するとなると結構大変だ。一方イギリスではクリケット試合の様々な局面に対して賭けることができる。そのような賭けを請けるノミ屋は概ねlicensed betting
parlourといわれる合法ビジネスだ。パキスタンチームの投手がノー・ボールを投げるタイミングが賭けの対象となること自体は合法だ。八百長の胴元はこのタイミングをパキスタンの選手との間で「握った」わけだ。胴元の言った通りのタイミングでパキスタンの投手がノー・ボールを出したので胴元と投手の間でキッチリ話がついていただろうということが確認できた。当然これで誰かがどこかで「シメシメ」といって賭け金の儲けを数えているはずだ。

今回のモンスーンに伴う水害で、対応の遅れを指摘されているパキスタン政府もこれには即座に動き出した。水害が発生してもヨーロッパ外遊を中止しなかったことで世界中の批判をかったザルダリ大統領はニュースが流れると即座にPakistan Cricket Boardパキスタン・クリケット協会に対し事態の推移を逐次報告するよう指示を出したし、ギラニ首相は”I am deeply pained (by the
reports). Our heads have been bowed in shame" 「 (報道に接して) 私は深く心が痛む。恥で首を垂れるのみだ」と、パキスタンの選手が八百長に関与したことが国の恥に当る行為だとの声明を8/30に発表している。

パキスタンのムシャラフ前大統領は事態を評してこれはnothing short of treason国賊と呼ぶに値する行為だと言えば、パキスタンのクリケット界の大御所Imran Khanイムラン・カーンは、首謀者はexemplary punishment見せしめのため厳罰に処すべきだと発言している。

すべて「有史以来」とまで形容される大洪水のもたらした災禍にどう対応しようかまだ手をつけかねている国の話だ。「今はクリケットの八百長どころではないだろうに」といってはいけない。国技相撲の力士や親方が野球賭博をやったどころの話ではないのだ。

インド亜大陸においてパキスタンは昔からbunch of crooksロクデナシの集団といわれてきた
(crookという英語はロクデナシと悪人の間のようなニュアンスのある言葉だ)。知人が「救われんわぁ。弁護士にこんなこと言われたんやで」と言って頭をかいていたことがある。パキスタンの企業とのもめごとでパキスタンの弁護士に相談に行ったところ、相手に”You have to expect this.
Everyone is a crook here”「こんなことは日常茶飯だ。この国の人は皆ロクデナシだ」といわれたためだ。私の会ったことのあるスリランカ人やバングラデシュ人、つまりインド人とパキスタン人を比較することができる人たちからも、このようなパキスタン人に関してこれに類する評価を聞かされたことが何度もある。

もっとも、わたくしは言ったことを採算度外視で最後までやりぬいたパキスタンの企業と取引したこともある。従い今回の一件をパキスタンだけの話と片付けてはいけないと思う。

スポーツに絡んだMatch fixing八百長話はインドでもはたまた日本でもよく耳にする話だ。スポーツに対する関心や、流れ込むお金からいって、八百長が起きないほうが不思議なのだ。

今回の一件は「『紳士のスポーツ』クリケットで起きたパキスタンらしい不祥事」というよりは、むしろインド亜大陸においていかにクリケットが国民の強い関心を呼ぶスポーツなのかを示す一つの象徴のような一件だと理解すべきだろう。

水のなるほどクイズ2010