「マリーゴールド・ホテルで会いましょう」再々訪2013/04/12 11:26

映画The Best Exotic Marigold Hotel(邦題「マリーゴールドホテルへようこそ」)の底本となったデボラ・モガッチDeborah Moggach 著These Foolish Thingsを読んだ。

両者の差や類似している部分を語ることで、映画製作者の目と小説家の目との違いを浮き彫りにしてみたい。

映画はインドの首都デリーから約300キロのジャイプールで撮影されているが、小説はデリーから1700キロ南にある近年インドのITの中心地として名高いバンガロールが舞台だ。撮影場所をジャイプールにしたのは、名所旧跡に乏しく発展著しいバンガロールより、名所旧跡が多いジャイプールの方がエギゾチックな撮影効果が上がると撮影者側が判断したためかもしれない。

映画と小説の一番違う部分は、登場人物のインド人の多様さだ。小説にはイギリスに移住してイギリス人の女性と結婚したインド人医師ラヴィ、彼の従弟で「インドでのアレンジをすべてやるから」とラヴィをイギリス人用老人ホテルビジネスに引き込むソニーがメーンで、そしてソニーの勧めで自分のホテルを提供することを許諾するホテルオーナーのミノーが補助線として登場する。ラヴィとミノーを通じて「イギリス人側が皆それぞれ家庭や個人の問題を抱えているにしても、そして『インド人側にはそのような問題がない』と思っていても、インド人側も決してすべてが円満に行っているわけではない」ということが描かれる。

夫婦の倦怠期を迎えているラヴィ、あれこれ切り盛りしすぎて失敗するソニー、出身階層も民族も異なり価値観の異なる妻との不毛な結婚生活からの脱却を求めるミノーと、いずれもそれぞれの問題を抱えるインド側の中年が、これまたそれぞれがそれなりの問題を抱えるイギリスの老人たちを引受けるというのが小説の設定だ。

このあたりインド側が、若く夢ばかり多いホテルの支配人ソニーの家族との葛藤やラブロマンスと、イギリスの老判事が探し当てた昔日の恋人とのつかの間の逢瀬だけの映画とでは話のヒダに差がある。

映画でも小説でも登場する老プレーボーイのノーマンは、小説ではラヴィの義父だという設定になっている。小説のノーマンの方が映画のノーマンよりはるかに厄介な手のやける、ラヴィの神経にさわる存在だ。小説のノーマンはマリーゴールド・ホテルのイギリスの老夫人たちには一切興味を示さず、ピチピチしたギャルを求めてバンガロールの街をさまよう。結局彼はピチピチギャルに遭遇できず、最終的にはソニーの斡旋した男娼との遭遇の結果心臓発作で他界するというのが小説の設定だ(やはり老プレーボーイは頑張りすぎて死ぬんだ)。小説ではこのおかげでラヴィ夫婦の倦怠期が治るというオチがついている。

映画で他界する老判事は若いころジャイプールに住んでいて、その頃の思い出の糸を手繰って町をさまようが、小説に登場するのは子供のころバンガロールに住んでいたBBC放送の元女性解説者だ。小説ではマリーゴールド・ホテルの建物が彼女がその昔通っていた学校で、彼女はバンガロール中を自分が生まれ育った家を探しまわり、今は外国企業の支社になっているその建物を見つけ、当時の門番とも邂逅し、思い出を果たして他界する。

映画では一組の夫婦が別れ、妻の方は帰国し夫の方はホテルのイギリス人仲間の寡婦と結ばれるが、小説と映画で設定が符合しているのはこの部分くらいだ。映画は恋人と結ばれたソニーと恋人相乗りするオートバイが、スクーターに相乗りする老夫婦とすれ違うシーンで終わるが、小説では老夫婦の結婚式の写真を写真技師が若づくりに(インドのことなので結構ド派手に)タッチアップしているところで終わる。

小説の原題These Foolish Thingsは1936年に発表されたスタンダードジャズ曲で、ナット・キング・コール、ビング・クロスビー、サラ・ボーンといった大歌手に歌い継がれた有名ナンバーだ。小説の終りの方でクリスマスパーティーの席上ホテルの住人たちが一年を振り返りながら、この曲を歌いだすという形で登場する(この小説キンドルKindleで読んだので、こういった場面の検索がキーワードを入れるだけで可能なのが大変便利だ)。映画ではこの曲は流れていなかったと思う。

総じて言うと明るくかつ軽いタッチでインドのおんぼろホテルに住むことになったイギリスの高齢者の行動を描いた映画と違い、同じ設定の小説の方がはるかに陰影に富んだ内容だったという印象だ。確かに映画の方が万人受けする演出になっていると思うが、私はこの明るい映画も、もっと複雑なトーンで描かれた小説も、両方とも好きだ。

英語は難しい--「マリーゴールド・ホテルで会いましょう」再々々訪2013/04/20 02:13

このブログで「マリーゴールド・ホテルで会いましょう」(原題Those Foolish Thingsが映画のヒットの結果だろう、映画にあわせてThe Best Exotic Marigold Hotel に改題されている)の著者
Deborah Moggachをカタカナで「デボラ・モガッチ」と書いた。
http://mumbaikar.asablo.jp/blog/2013/04/12/6775075

ところがハヤカワ文庫が発行している翻訳本(映画の日本封切りにあわせて発行されており、邦題は映画と同じ「マリゴールド・ホテルで会いましょう」)では著者名を「デボラ・モガー」と記載している。ちなみにMoggachの小説Tulip Feverも邦題「チューリップ熱」で翻訳が白水社から出版されており、ここでも著者名はデボラ・モガーとなっている。

マズイ。だけど本当にモガーなんだろうか?

ところがこれがインターネットであちこち調べてもどうもハッキリしない。英国のウェブサイト
http://www.theanswerbank.co.uk/Arts-and-Literature/Question302703.html
でも「Moggachはどう発音するのか」という質問に対してあれこれ回答があり、元々スコットランドの部族名なのでchの部分を作曲家のBach(バッハ)のchのような感じでモガッハと発音するのだというあたりで落ち着いているくらいだ。ちなみに別なサイトではモガーだと書かれていたり、アメリカの新聞には「モガッシュと発音されるそうだ」と書かれていたり。

ヨーロッパのほとんどの言語は、その言語固有のルールを知っていればローマ字表記通りに読めばそれですむ。例えば南仏の都市Niceはフランス語でceを「ス」と発音するというルールを知っていればニースを読め、ナイスには絶対ならない。マルクスの生まれたフランス国境に近いドイツのTrier市はドイツ語でerを「アー」と発音することを知っていればトリアーと読める。ところが英語はルール通りに事が運ばないのでHerefordとかLeicesterなどという難読地名が出てくる(前者は「ヒヤフォード」ではなく「ヘレフォード」、後者は「ライセスター」ではなく「レスター」)。ひどいのは本来フランス語の名詞であるBeauchamp(フランス語ではeauを「オー」と発音し、chを「シ」と発音する決まりなのでボーシャン)という地名を「ビーチャム」とよませるケースだ。1960年台のイギリスのHome首相は「ホーム」首相ではなく「ヒューム」首相だ。このあたり難読の読みがはびこる日本語と似ている。英米同一地名の場合、Birminghamがイギリスではバーミンガム、アメリカではバーミングハムとか、Walthamがイギリスではウォルサム、アメリカではウォルトハムとアメリカのほうが綴りに忠実に発音される傾向にあるのは興味深い。

脱線したが、作家のDeborah Moggachには http://www.deborahmoggach.com/ というウェブサイトがあり、そこに連絡先のメールアドレスが記載されていたので、問い合わせのメールを出してみたがサイトから弾き返されてしまった。困った。

アベノミクス2013/04/27 00:33

アベノミクスやその成果については私がちょっと見ただけで大前研一小峰隆夫野口悠紀雄藤巻健史 (50音順)と言った人々がその成果を疑問視したりその行く末に危ういものを感じているような論説を発表している。しかしその一方で株が上がったり賃金が上がりそうだったりするので「成果が出てるじゃないか」という声が日増しに大きくなってきているような印象を受ける(とりあえずは「日経新聞を読むとそんな感じがしてくる」という但し書きをつけておこう)。こうなるとこれまでの日本ではKYとか言って、懐疑論を語ることがはばかられるようになってくる。

しかし冷静に考えてみれば、金融緩和にしても、財政出動にしても過去の自民党政権下でも、それに続く民主党政権下でもあれこれ試されていて、それが何でアベノミクスというレッテルがつくと経済が上向くのだろう?

一つ知っておくべきことは経済政策は自動車の運転のようにキチンと加減速ができるものではないということだ。経済学はまだ到底科学の粋に到達していない。こんな状況下では経済政策には結構「目をつぶってエイヤッ」と言う部分がある。ちなみにアベノミクス第一弾の大幅金融緩和は表面上はそれなりの理論的根拠があり、周到な計算に基づくもののような説明になっているが、4/23の日経朝刊の記事をみると黒田新総裁が通貨供給量を「わかりにくいから」といって

1.8倍から2倍に引き上げていることがわかる。エラそうに金融政策といってもこの程度のものなのだ。


そんな状態だから、今回の金融緩和が行き過ぎてインフレ暴走となり始めたらキッチリ制御できるのか疑問に思っておいたほうが良い。これはとくに現役年金生活者及びその予備軍たる我々が真剣に考えておくべき疑問です(∵ 年金はインフレに遅れて支給額が是正されるし、政府が財政難になればナンノカンノといって支給額の是正や支給そのものを遅らせたりする)。

そんな疑問をもつなか、安倍首相のブレーンで元大蔵官僚の高橋洋一が月刊誌 Facta 4月号に寄稿した「『インフレ目標』わが23年戦記」という文と、「今の経済情勢では金融政策では経済が好転しない」と断じる野村総研のリチャード・クーの文を読んだ。クーの文の方は野村証券の顧客向けウェブサイトの中のマンデー・ミーティング・メモという不定期のレポートの4月15日版だ。高橋は「通貨供給量を増やせばインフレが起こって経済が成長する」と安部首相に吹込んだ当の人物だ。クーは「民間がバブルのせいで傷んだバランスシートの修復をしている間は、金融政策で銀行にいくら資金を供給しても、だれも銀行から借金をしてくれないので、金融政策は無意味だ」という欧米でも有名なバランスシート不況論を言い出した人物だ(個人的にはバランスシート不況という現象に気づいたクーは安倍のブレーンの浜田宏一よりよほどノーベル経済学賞に値すると思うが、学者は民間エコノミストを評価しませんからねぇ)。

政治家は、特に日本の政治家は、理論に弱く情緒に流されがちだ。まあ存命の戦後の政治家でこれがあてはまらないのは中曽根康弘くらいなものだろう。「安倍首相はクーのバランスシート不況論も理解・検討した上で確たる根拠を持ってインフレターゲット論に同調しているのだろうか?」とフト気になった。


会社の元同僚で「成蹊中高で安部兄弟をシゴイテいた」という男によると「安部なんて頭が悪くてドーしようもなかった」そうだ(秀才のほまれ高かった中曽根康弘やそのライバル福田赳夫とは大分違う)。そんなことを聞くにつれアベノミクスの根拠がどれくらい吟味されたものなのか極めて危ういものを感じてしまう。

前述の藤巻健史はこれまで自分が債券や為替で張っている内容にそった(つまりは彼個人の相場観に沿った)発言をしている。彼は数年前から一貫して「円が弱くなるはずだ」或いは「安くなるべきだ」と主張しているので、昨年までの円高局面ではかなり損を出していて、ここ数ヶ月でその損を取り戻しているのではないかと思われる。しかしその藤巻の「日本経済の先行きは暗いので円を売って外貨(ドル)を買え」という主張に、なんとなく彼の思惑に対する疑念よりも共感が先立つ今日このごろだ。


水のなるほどクイズ2010