映画「レイルウェイ--運命の旅路」を見た2014/04/26 18:43

1957年に日本で公開された「戦場にかける橋」(原題 The Bridge on the River Kwai)は主題曲
「クワイ河マーチ」と共に当時の日本では結構なヒットになった映画だ。確かに当時も「あの映画を見ていて気分の良いものではない」という日本人がいたことは事実だが、第二次世界大戦後12年を経過した日本ではまだ戦前戦中の記憶を鮮明にもつ人々が多数存在し、彼らに自省を伴う一定の共感を持たせるものがあったからこそ、あの映画がそれなりのヒットになったのだと考える。

しかし戦前戦中の記憶が希薄化している現在、同じくクワイ河収容所を扱った「クワイ河収容所の奇跡」(原題 To End All Wars、公開2001年、日本公開2002年)はさほどのヒットとはならず、この映画もさほどのヒットとはならないだろう。むしろ現在の日本では「日本軍はそんなことはしていない」とか「連合軍だってひどいことをしたからお互い様だ」という声のほうが声高に語られ、この映画の本当の価値が見失われるのではなかろうか。

それは残念なことだ。我々は日本軍がジュネーヴ協定に違反するような捕虜の虐待を行った事実は事実として認識する必要がある。悪いことは悪いことなのだ。しかしそれ以上に重要なことは「戦いとそれに巻き込まれる捕虜」がテーマであった「戦場にかける橋」とは異なり、「クワイ河
収容所の奇跡」にしても「レイルウェイ--運命の旅路」にしても「極限状況を経験していても人間は和解が可能である」という「恩讐を超えた和解の可能性」がテーマになっており、人間という存在に対する希望を持たせてくれることだ。それ故にこそこの両作品は「戦場にかける橋」を超える作品であると私は思う。

2002年の「クワイ河収容所の奇跡」から11年。捕虜を虐待をした側とされた側の和解を扱った「レイルウェイ--運命の旅路」は、虐待の事実を我々日本人の記憶から風化させないためにも、そして和解がありうるという希望を我々日本人に与えるためにも、多くの人に見て欲しい映画だ。

「レイルウェイ--運命の旅路」について4月25日付の朝日新聞では

第2次大戦下、日本軍の捕虜となり過酷な泰緬鉄道建設に従事させられた英国人将校が、深く心に負った傷を克服するまでを描く。「英国王のスピーチ」でアカデミー賞を獲得したコリン・ファースが、実話を基にした物語の主人公を熱演。妻役はニコール・キッドマン。戦後再会する日本人通訳を真田広之が演じる。(公開中)

と簡単な紹介が出ていたが、私が見る映画を決める際の頼りにしている金曜の日経新聞夕刊文化面では4月25日には「レイルウェイ--運命の旅路」の映画評が掲載されず、代わりにアメリカのMarvel社の漫画キャラを使った娯楽映画「キャプテン・アメリカ」と「アメイジング・スパイダーマン」の映画評が掲載されていた。来週金曜(5月2日)にも「レイルウェイ--運命の旅路」の映画評が掲載されなければ日経新聞には「ネットウヨシンパの新聞」という称号を賜ろう。

ところで「レイルウェイ--運命の旅路」で主人公が憲兵隊による拷問を受けるシーンで水攻め(英語ではwaterboarding)が使われている。この水攻めという手法、アルカイダの構成員あるいはシンパと目される容疑者に対してアメリカが盛んに採用しているものだ。最近の映画でいえばゼロ・ダーク・サーティ(原題もそのままZero Dark Thirty。2012年公開、日本公開は2013年)にもそのシーンが登場する。

アメリカがキューバに強要して1903年に締結した不平等条約に基づきキューバに建設されたグアンタナモ米軍基地には現在もアルカイダの構成員あるいはシンパと目される容疑者が収容されている。またアメリカはextraordinary renditionと称してアルカイダの構成員あるいはシンパと目される容疑者を世界各地の「親米国家」に送り込み、現地ではその国家で認められた手法に基づく尋問(つまりはアメリカでは実施できないレベルの拷問)が実施されている。このような経験をしたアルカイダの構成員あるいはシンパと目される容疑者が、果たして彼らを収容している相手と恩讐を超えた和解をするのだろうか?グアンタナモ基地内の収容施設が2002年に建設されてから10年以上経過し、大統領就任当初収容施設の閉鎖を言明していたオバマ大統領が未だにその実現ができないでいる現在、和解など無理だろうと推測せざるを得ない。

「レイルウェイ--運命の旅路」は角川シネマ有楽町でみたが、「和解はどのような状況下で実現するのだろうか」ということに思いをはせながら有楽町のビックカメラの喧騒を通って帰途についた。

水のなるほどクイズ2010