終戦記念日を迎えるにあたり: テレビ番組「刑事フォイル」(原題Foyle's War)2015/08/14 16:41

ケーブルテレビにミステリーチャンネル別名AXNミステリーという自称日本唯一のミステリー専門チャンネルがある。「刑事コロンボ」のデジタルリマスター版をはじめ内外のミステリー番組を放映しているチャンネルだ。今話題のBBC(英国放送協会)製作のシャーロック・ホームズの現代版Sherlock(邦題「シャーロック」)も日本ではこのチャンネルで初めて放映された。私が最近はまっているのがこのチャンネルで放映されている英国の民間放送会社ITVが制作した標題の番組だ。

第二次世界大戦中のイギリス南岸の小都市Hastingsヘースティングスの田舎刑事フォイル[1]が戦時下に遭遇するさまざまな刑事事件に、可能な限り自己の良心に従って対処してゆくというのが大雑把な設定だ。戦時下で人員を減らされている警察組織の中でフォイルは、ノルウェーで片足を失う戦傷を負って復員し警察に復職した部下のMilnerミルナー刑事と二人で直接事件を追う[2]。原題のFoyle's War「フォイルの戦い」の意図するところは、フォイルが犯罪捜査の過程で遭遇する「戦時下」という制限に対する彼の良心に基づく戦いがこの番組の中心テーマだからだ。この番組のひとつのポイントは実際に起きた事件を題材にストーリーが構成されているという点で、これが単なるフィクションに基づくストーリーよりもはるかに深みというか重みをこの番組に与えていると思う。

2002年に放映開始したこの番組、本国では好評のため戦中編に続き戦後編が放映されており、フォイルが戦後の混乱期を経て冷戦期にMI5に転籍し国内の防諜活動に従事し、戦時中のように一見黒白がもっとはっきりしていた時代とは異なる新たな時代におけるフォイルの戦いが放映されている。英国では本年1月に最新エピソードが放映され、日本ではミステリーチャンネルで戦後編の放映が開始された。

私がこの番組を見ていて思うのは「同じ第二次世界大戦下の日本とどう違うのだろうか?」という点と「舞台が日本だったらどういうストーリーが構成できたのだろうか?」という点だ。

フォイルが追求した、物資の横流しや、消防団の火事場泥棒、兵士と駐屯地の娘の交流の結果、在留外国人によるスパイ行為、その反面としての在留外国人に対する不当な差別、といった問題やそれに類する事案は当然日本にもあったはずだ。物資の横流しについては戦時下のイギリスでは重労働刑が課せられ、火事場泥棒を行った消防団員は自動的に死刑が確定していた。日本の警察が検挙した闇屋はどういう処置を受けたのだろう?

番組では戦時下の英国には反ユダヤ主義で親ナチの人々がおり、彼等が非公式にではあるが集うことが可能であったとか、思想としての反戦主義が認められており、主義に基づく徴兵忌避が違法ではなかったとか、「日本はこうではなかったんだろうなぁ」と思わせるエピソードも紹介されている。

戦時下の日本の警察といえば、闇物資関連の捜査、思想犯やスパイなどの検挙などのような戦時体制の維持、つまりは「市民生活の統制」の部分はすぐ思い浮かぶが、例えば産業戦士ともてはやされる軍需工場の工員が女子挺身隊員を暴行したとか(尾崎士郎の「人生劇場」にチラッとこの話が出てくる)、羅災した建物や住宅からの火事場泥棒もあったはずだ。このような刑事事件にはどのように対処していたのだろう?

このエントリーを書こうとあれこれ戦時中の日本における刑事事件をインターネット上で探していたら、通称「ひかりごけ事件」に行き当たった。

厳冬の知床半島で難破した陸軍が徴用した漁船の船員が海岸に漂着して番屋にたどり着いたが、先に死亡した船員の肉を食べて命をつないだ当時29歳の船長が死体損壊罪で釧路地検に告発され釧路地裁で懲役1年の判決が言い渡された事件だ[3]。船長の生存が確認された当初、船長は「不死身の神兵」ともてはやされるが、やがて番屋の近辺にりんご箱に詰められた人骨が発見されるに及び、当局は不都合な事実を覆い隠すため報道管制や、裁判の非公開を決める。この事件は武田泰淳の小説「ひかりごけ」の題材となった [4]。

この一件を見る限り戦時中も日本の司法制度はそれなりに機能していたという印象を受ける。例えば場所や状況を多少加工したうえで「事件を非公開にして葬ろうとする軍部や検察のトップに対し、現場の刑事の日常を知る市民を通じ統制の網目を抜けて話が漏れ始め、当局者が地団駄を踏む」という形に話を組み立てれば立派に日本版の「刑事フォイル」になるのではなかろうか。8月15日の日本にとっての第二次世界大戦敗戦の日を迎えるにあたり、日本のテレビ局にはいたずらにバラエティー番組の製作に精を出すのではなく、自分の歴史をこのように角度を変えた形で見つめなおすような番組の制作を期待したい。


註解

[1] 田舎刑事というとちょっと語弊がある。フォイルの職制はDetective Chief Superintendent(日本の警察の職制で言うと警視正、つまり署長あたり)で上司はロンドンにいるAssistant Commissioner(日本の警察の職制で言うと警視長、つまり本部長)だ。

[2] ミルナー刑事は戦時中のエピソードではSergentと呼ばれていたので、日本の職制で言うと巡査部長あたりだ。

[3] http://www.kensatsu.go.jp/kakuchou/kushiro/oshirase/18411200610100/16_syoukai_konnjaku05.html

[4] 極限時に人肉を食するという事態は大岡昇平「野火」を待つまでもなく、劣勢、総崩れに陥った日本軍では横行していた。また九州帝国大学では1945年に捕虜の生体解剖をこなっており、解剖後の体の人肉試食を行った可能性があり、これが遠藤周作の「海と毒薬」の題材となっている。

安倍談話2015/08/15 09:09

懸案になっていた戦後70年にあたって安倍首相が発表すると言っていた「安倍談話」が8月14日に発表された。

「一応合格点の内容」ということになっているが、1,304字だった村山談話に比べ、本文が3,433字と実に2.6倍の長さだ。これは安倍談話が長い歴史認識の説明を伴っている理由もあるが、談話の内容に甲論乙駁のような部分があるからでもある。その結果、論旨がぼやけている。長くなったりぼやけたりした理由は、文案の構想を様々な論者を集めた「21世紀構想懇談会」に丸投げし、出来上がった文案を安倍の思いも加えて内閣府の官僚がひねり回した結果なのだろう。

典型的な例が、安倍個人が力点をおいたとされる「日本では、戦後生まれの世代が、今や、人口の八割を超えています。あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません。」の部分。その直後にとってつけたようにおかれている「しかし、それでもなお、私たち日本人は、世代を超えて、過去の歴史に真正面から向き合わなければなりません。謙虚な気持ちで、過去を受け継ぎ、未来へと引き渡す責任があります。」という文は優秀な官僚の手になる「調整」の結果ではなかろうか。

「謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」の部分は既に指摘したように「何をやっても当面中韓朝三国の国内事情がある限り謝罪要求がなくなることはない」と割り切るべきだろうと思う一方、本気で「謝罪を続ける宿命を背負わせ」たくないのなら、国際世論に「日本はあれだけやっているのにまだ第二次世界大戦前戦中のことについて言われるのはおかしい」と思われるような「倫理的な高み」moral high groundに、日本をたたせる必要がある。この過程で国内の一部の異論を排する必要が出るかもしれないが、その覚悟を持ち行動をすることが必要だ。

問題はなかなかこの高みに登りきれないことだ。つまり覚悟と行動がとれないことだ。登り切れない理由を手っ取り早く言えば次の二つの日本の国内事情に集約される。ひとつは安倍の足元の自民党の議員の中に、それも有力議員の中に、村山談話にしても安倍談話にしても、そこで示される歴史認識に公然と疑義を唱える者がいること、そしてもうひとつは戦没者及びいわゆるA級戦犯追悼に関わる靖国神社の位置づけの問題に対し未だに明快な処置を行えていないことだ。

ちなみにこの二つの問題は自民党だけの問題ではなく、民主党を始めとする一部野党にも存在しているが、政権党である自民党の責任は重い。

また、安倍には申し訳ないが「我が国は、自由、民主主義、人権といった基本的価値を揺るぎないものとして堅持し」と言われても何となく「これは彼のホンネかなぁ」という気持ちにさせられ、つまりは論旨に対する疑念が想起されることも、論旨をぼやけさせる結果になっている。これは彼のこれまでの言動や彼の周辺に集う人々からうかがえるもののなせるわざだ。このあたりも彼がどう対処するのか次第で安倍談話が単なる美辞麗句なのか、安倍の本心なのかが測られることになる。

そこまでの覚悟を持ってこの談話を発表したのだろうか?「談話を発表する」と言ってから「しまった」と思っているのではなかろうか?安倍にはそのような疑念を払拭させるような行動を通じ、ぜひ前者であることを示してもらいたい。


水のなるほどクイズ2010