安倍談話2015/08/15 09:09

懸案になっていた戦後70年にあたって安倍首相が発表すると言っていた「安倍談話」が8月14日に発表された。

「一応合格点の内容」ということになっているが、1,304字だった村山談話に比べ、本文が3,433字と実に2.6倍の長さだ。これは安倍談話が長い歴史認識の説明を伴っている理由もあるが、談話の内容に甲論乙駁のような部分があるからでもある。その結果、論旨がぼやけている。長くなったりぼやけたりした理由は、文案の構想を様々な論者を集めた「21世紀構想懇談会」に丸投げし、出来上がった文案を安倍の思いも加えて内閣府の官僚がひねり回した結果なのだろう。

典型的な例が、安倍個人が力点をおいたとされる「日本では、戦後生まれの世代が、今や、人口の八割を超えています。あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません。」の部分。その直後にとってつけたようにおかれている「しかし、それでもなお、私たち日本人は、世代を超えて、過去の歴史に真正面から向き合わなければなりません。謙虚な気持ちで、過去を受け継ぎ、未来へと引き渡す責任があります。」という文は優秀な官僚の手になる「調整」の結果ではなかろうか。

「謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」の部分は既に指摘したように「何をやっても当面中韓朝三国の国内事情がある限り謝罪要求がなくなることはない」と割り切るべきだろうと思う一方、本気で「謝罪を続ける宿命を背負わせ」たくないのなら、国際世論に「日本はあれだけやっているのにまだ第二次世界大戦前戦中のことについて言われるのはおかしい」と思われるような「倫理的な高み」moral high groundに、日本をたたせる必要がある。この過程で国内の一部の異論を排する必要が出るかもしれないが、その覚悟を持ち行動をすることが必要だ。

問題はなかなかこの高みに登りきれないことだ。つまり覚悟と行動がとれないことだ。登り切れない理由を手っ取り早く言えば次の二つの日本の国内事情に集約される。ひとつは安倍の足元の自民党の議員の中に、それも有力議員の中に、村山談話にしても安倍談話にしても、そこで示される歴史認識に公然と疑義を唱える者がいること、そしてもうひとつは戦没者及びいわゆるA級戦犯追悼に関わる靖国神社の位置づけの問題に対し未だに明快な処置を行えていないことだ。

ちなみにこの二つの問題は自民党だけの問題ではなく、民主党を始めとする一部野党にも存在しているが、政権党である自民党の責任は重い。

また、安倍には申し訳ないが「我が国は、自由、民主主義、人権といった基本的価値を揺るぎないものとして堅持し」と言われても何となく「これは彼のホンネかなぁ」という気持ちにさせられ、つまりは論旨に対する疑念が想起されることも、論旨をぼやけさせる結果になっている。これは彼のこれまでの言動や彼の周辺に集う人々からうかがえるもののなせるわざだ。このあたりも彼がどう対処するのか次第で安倍談話が単なる美辞麗句なのか、安倍の本心なのかが測られることになる。

そこまでの覚悟を持ってこの談話を発表したのだろうか?「談話を発表する」と言ってから「しまった」と思っているのではなかろうか?安倍にはそのような疑念を払拭させるような行動を通じ、ぜひ前者であることを示してもらいたい。

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