山口淑子(李香蘭)さん逝去 ― 2014/09/24 12:16
戦前の中国で中国人女優李香蘭として活躍し、戦後は様々な経歴を経て自民党の良識ある国会議員として活躍した山口淑子さんが9月7日に亡くなられた。
Googleで検索すると、日本の新聞はいざ知らず、中国(というよりは台湾、香港、シンガポールも含む中華圏全体)でも、アメリカ(New York Times, Wall Street Journal, Washington Post, Los
Angeles Timesのような一流紙以外にも芸能紙のVariety, Hollywood Reporter) やイギリスの新聞(全国紙のFinancial Times, The Times, Guardian, Independentの他なんとスコットランドの
The Scotsman, Herald Scotland)までにも彼女の追悼記事が掲載されたことが分かる。私の見た限りではドイツやフランスのメディアでは報道されていないようで、この英米メディアと欧州大陸メディアの落差がどのようなわけなのかを考えてみるのも面白いかもしれない。
私は山口さんには一度だけお会いしたことがある。まだ中学生だったか高校生だったかの頃、両親と山口さんの共通の知人の設けた席で当時外交官夫人であった大鷹淑子さんとお会いした。行く前に両親が「李香蘭に会える」と何となくソワソワしていたのと、帰ってきてから母に「どう?すごい美人だったでしょう?」と聞かれてとっさに返答ができず「結構年とってたね」と応え、母がやや落胆していたことを覚えている(山口さんと母は二つ違いなので或いは息子に「老けている」と間接的に言われたと悲観したのかもしれない)。実は私の印象は「トランジスター・グラマー」というものだったが、これはちょっとストレートに母親に言うのがはばかられからこんな返事をしたのだ。
1970年代初頭に学生の私が東南アジア旅行をしていたとき、旅先の宿屋(おおむね華人が経営していた)の食堂などで筆談をしているとき「李香蘭」と書くと「哦李香蘭知道」と誰もが応じたので「皆未だに知ってるんだすごいなぁ」と思った記憶がある。
その後彼女がニュースキャスターとしてパレスチナから報道をしたとか、国会議員になったとかいうことは知っていたが「さすが」と思ったのは小泉首相が靖国神社参拝をしたとき毅然と「首相は靖国神社ではなく千鳥が淵戦没者墓苑に行くべきだ」という論陣を張ったことだ。
第二次世界大戦前の日本の中国における所業と真剣に向き合い、あるいは敗戦後の早い時期にアメリカの映画界で活躍した彼女であればこそ、その所業の精神的な支柱となっていた国家神道やその社として建立された靖国神社に参拝することが日中関係やひいては世界からみた日本の第二次世界大戦の総括の仕方にどのような影響を及ぼすのかしっかり理解していたのだ。
日本経済新聞が
戦前の男性を魅了した美貌とリリック・ソプラノの名残を色濃くたたえた声。よく笑う人であったが、話の端々に頑強な信念と気丈さをうかがわせた。
(中略)
晩年、「私は日本人? 中国人?」と聞かれたことがある。無論、質問の形を借りた自問だった。二つの祖国に引き裂かれた自らに、終生向き合って逃げることがなかった。
と書き(9/14付、野瀬泰申特別編集委員)、産経新聞が
その死去を報じた中国メディアは、李香蘭を「旧上海の7大女流歌手」と呼び、「夜来香」に「歌い継がれる名曲」の名を与えた。日中関係が低迷する中で送られた賛辞の数々は、時空を越えた李香蘭への評価として記憶すべきだろう。
(9/15、山本秀也中国総局長)とそれぞれ署名入りの記事で報道したことに、日本軍の攻撃を受ける北京の女学校時代、「日本軍が来たらどうするか」と問われて「城壁に登れば、外から攻めてきた日本軍の銃弾か、城壁内で迎え撃つ中国側の銃弾か、どちらかの弾丸にあたって、私は一番さきに死ぬだろう。それが自分にもっともふさわしい身の処しかただと本能的に思[い]『私は北京の城壁に立ちます』 」と答えたとか、大戦後は中国の裁判所で漢奸として一度は処刑されることを覚悟した彼女の日中友好にかけるゆるぎない心と存在感への両新聞の立場を超えた敬意を感じる。
合掌
Googleで検索すると、日本の新聞はいざ知らず、中国(というよりは台湾、香港、シンガポールも含む中華圏全体)でも、アメリカ(New York Times, Wall Street Journal, Washington Post, Los
Angeles Timesのような一流紙以外にも芸能紙のVariety, Hollywood Reporter) やイギリスの新聞(全国紙のFinancial Times, The Times, Guardian, Independentの他なんとスコットランドの
The Scotsman, Herald Scotland)までにも彼女の追悼記事が掲載されたことが分かる。私の見た限りではドイツやフランスのメディアでは報道されていないようで、この英米メディアと欧州大陸メディアの落差がどのようなわけなのかを考えてみるのも面白いかもしれない。
私は山口さんには一度だけお会いしたことがある。まだ中学生だったか高校生だったかの頃、両親と山口さんの共通の知人の設けた席で当時外交官夫人であった大鷹淑子さんとお会いした。行く前に両親が「李香蘭に会える」と何となくソワソワしていたのと、帰ってきてから母に「どう?すごい美人だったでしょう?」と聞かれてとっさに返答ができず「結構年とってたね」と応え、母がやや落胆していたことを覚えている(山口さんと母は二つ違いなので或いは息子に「老けている」と間接的に言われたと悲観したのかもしれない)。実は私の印象は「トランジスター・グラマー」というものだったが、これはちょっとストレートに母親に言うのがはばかられからこんな返事をしたのだ。
1970年代初頭に学生の私が東南アジア旅行をしていたとき、旅先の宿屋(おおむね華人が経営していた)の食堂などで筆談をしているとき「李香蘭」と書くと「哦李香蘭知道」と誰もが応じたので「皆未だに知ってるんだすごいなぁ」と思った記憶がある。
その後彼女がニュースキャスターとしてパレスチナから報道をしたとか、国会議員になったとかいうことは知っていたが「さすが」と思ったのは小泉首相が靖国神社参拝をしたとき毅然と「首相は靖国神社ではなく千鳥が淵戦没者墓苑に行くべきだ」という論陣を張ったことだ。
第二次世界大戦前の日本の中国における所業と真剣に向き合い、あるいは敗戦後の早い時期にアメリカの映画界で活躍した彼女であればこそ、その所業の精神的な支柱となっていた国家神道やその社として建立された靖国神社に参拝することが日中関係やひいては世界からみた日本の第二次世界大戦の総括の仕方にどのような影響を及ぼすのかしっかり理解していたのだ。
日本経済新聞が
戦前の男性を魅了した美貌とリリック・ソプラノの名残を色濃くたたえた声。よく笑う人であったが、話の端々に頑強な信念と気丈さをうかがわせた。
(中略)
晩年、「私は日本人? 中国人?」と聞かれたことがある。無論、質問の形を借りた自問だった。二つの祖国に引き裂かれた自らに、終生向き合って逃げることがなかった。
と書き(9/14付、野瀬泰申特別編集委員)、産経新聞が
その死去を報じた中国メディアは、李香蘭を「旧上海の7大女流歌手」と呼び、「夜来香」に「歌い継がれる名曲」の名を与えた。日中関係が低迷する中で送られた賛辞の数々は、時空を越えた李香蘭への評価として記憶すべきだろう。
(9/15、山本秀也中国総局長)とそれぞれ署名入りの記事で報道したことに、日本軍の攻撃を受ける北京の女学校時代、「日本軍が来たらどうするか」と問われて「城壁に登れば、外から攻めてきた日本軍の銃弾か、城壁内で迎え撃つ中国側の銃弾か、どちらかの弾丸にあたって、私は一番さきに死ぬだろう。それが自分にもっともふさわしい身の処しかただと本能的に思[い]『私は北京の城壁に立ちます』 」と答えたとか、大戦後は中国の裁判所で漢奸として一度は処刑されることを覚悟した彼女の日中友好にかけるゆるぎない心と存在感への両新聞の立場を超えた敬意を感じる。
合掌
山口淑子(李香蘭)さん逝去 [追記] ― 2014/09/25 20:37
昨日のブログで「私の見た限りではドイツやフランスのメディアでは報道されていないようで、この英米メディアと欧州大陸メディアの落差がどのようなわけなのかを考えてみるのも面白いかもしれない。」と書いたが、たまたま知人のドイツ人の現役新聞記者と会ったのでこの疑問をぶつけてみたところ、
彼: 日本人の、特に古い世代は、日独修好の念が強い。この間も汽車の中でおじいさんにドイツの軍歌を披露された。が、今のドイツ人はハッキリ言って日本に関心がない。
私: 確かにドイツではナチス時代の軍歌は歌うことからしてverboten(ご法度)だったね。
彼: ドイツ人の一番の関心はEUがどうなるかで、これがあらゆることに優先する。
一度TBSの記者をネオナチの大会に連れて行ったら「ベトナム人帰れ」と野次られ「ベトナム人ではなく日本人だ」と説明したら「なんでも良いから外国人は出てゆけ」と言われた。ネオナチですらこんなものだ。
日本とアメリカとの関係を考えれば、アメリカの新聞に記事がでたことは不思議ではない。そもそも自分の新聞は経済紙だし
私: だって同じEUのイギリスの新聞が、スコットランドの新聞でさえ結構長い追悼記事を書いているんだぜ。それから経済紙のWall Street JournalやFinancial timesにも出てるんだぜ。
彼: …
「フーン、EUの盟主として最近ちやほやされているドイツってそんなに内向きなんだ」というのが私の率直な印象だった。一人の記者の私的な印象という但し書きをつけるべきだろうが、その場にいた別のドイツ人記者もとくに彼の解説に反対しなかったところをみると、これが標準的な見方なのかもしれない。
ちなみにネオナチの集団が「ベトナム人」と言ったのには理由がある。ドイツにフィリップ・レスラー(Philipp Rösler)というドイツ自由民主党(FDP)の元委員長で、ドイツの副首相も経験している人物がいるからだ。レスラーは1973年に南ベトナム(当時)のカトリック系孤児院から西ドイツ(当時)の医師が養子として引き受けたという出自を持つので、ルックスは生粋のベトナム人だ。第二次世界大戦中はアーリア人の血統を云々していたドイツが、戦後は人種の違いを乗り越える養子縁組や、その子供に政党の党首や副首相になる地位を与えるところまで変わることができるところまできたことには、「日本はそこまではまだ到底行ってないなぁ」という感慨をもって感心するしかない。と同時にそれを快く受け入れられない集団が、少数であるとはいえ、ドイツに残っていることも留意しておくべきだろう。
彼: 日本人の、特に古い世代は、日独修好の念が強い。この間も汽車の中でおじいさんにドイツの軍歌を披露された。が、今のドイツ人はハッキリ言って日本に関心がない。
私: 確かにドイツではナチス時代の軍歌は歌うことからしてverboten(ご法度)だったね。
彼: ドイツ人の一番の関心はEUがどうなるかで、これがあらゆることに優先する。
一度TBSの記者をネオナチの大会に連れて行ったら「ベトナム人帰れ」と野次られ「ベトナム人ではなく日本人だ」と説明したら「なんでも良いから外国人は出てゆけ」と言われた。ネオナチですらこんなものだ。
日本とアメリカとの関係を考えれば、アメリカの新聞に記事がでたことは不思議ではない。そもそも自分の新聞は経済紙だし
私: だって同じEUのイギリスの新聞が、スコットランドの新聞でさえ結構長い追悼記事を書いているんだぜ。それから経済紙のWall Street JournalやFinancial timesにも出てるんだぜ。
彼: …
「フーン、EUの盟主として最近ちやほやされているドイツってそんなに内向きなんだ」というのが私の率直な印象だった。一人の記者の私的な印象という但し書きをつけるべきだろうが、その場にいた別のドイツ人記者もとくに彼の解説に反対しなかったところをみると、これが標準的な見方なのかもしれない。
ちなみにネオナチの集団が「ベトナム人」と言ったのには理由がある。ドイツにフィリップ・レスラー(Philipp Rösler)というドイツ自由民主党(FDP)の元委員長で、ドイツの副首相も経験している人物がいるからだ。レスラーは1973年に南ベトナム(当時)のカトリック系孤児院から西ドイツ(当時)の医師が養子として引き受けたという出自を持つので、ルックスは生粋のベトナム人だ。第二次世界大戦中はアーリア人の血統を云々していたドイツが、戦後は人種の違いを乗り越える養子縁組や、その子供に政党の党首や副首相になる地位を与えるところまで変わることができるところまできたことには、「日本はそこまではまだ到底行ってないなぁ」という感慨をもって感心するしかない。と同時にそれを快く受け入れられない集団が、少数であるとはいえ、ドイツに残っていることも留意しておくべきだろう。
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