今日はちょっと個人的な話を… ― 2010/05/11 22:29
一月ほど前、大学時代の恩師の夫人を偲ぶ会に出席した。恩師は学問研究に対してきわめて禁欲的な、いわばアカデミズムを体現したような人物で、授業であれゼミナールであれ、くり出される恩師の持つ価値観に基づき整理された該博な知識の奔流に接することは、恩師の意見に同意するしないにかかわらず、まさに「謦咳に接する」体験だった。今日の私のものの見方や考え方の一部は間違いなく恩師が与えてくれたものだ。
恩師の家を数回訪ねたことがあるが、夫人が出てこられたのは茶菓を持って二階にある恩師の書斎に上がってこられるときだけだったので、口をきいたことはほとんどなく、従い印象は極めて希薄だ。もっともこの点は他の同窓も同じであったようで、偲ぶ会で演壇にたった人すべてが同じようなことを語っていた。
その「誰もが知らない夫人」について恩師は概ね次のようなことを語られた。
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夫人は東京女子高等師範学校(東京女高師、現在の御茶ノ水女子大学)に学び、卒業してから理化学研究所に勤めておられた時期があり、そのときライカを使って写真撮影を担当されていた。その結果夫人の写真の腕前は相当なもので、恩師の著書に出てくる写真の多くは夫人の手になるものであった。恩師の発言や、著書にライカの話が出てくることが多かったが「背景にはこれがあったのか」と得心が行った。
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夫人は恩師の著作の浄書を一貫して担当されていたようだ。それだけではなく、山之内一豊の妻のような人物であられたようで、恩師の著作を発行してくれる出版社が見つからなくなった際、資金を工面して自費出版を実現された由で、恩師は「自分が学者として存在できていたのはひとえに妻のおかげであった」と語られていた。
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恩師は数年前に脳梗塞をわずらい(ある年の年賀状に恩師のものとは異なる字体で、病を得てから右腕の自由が利かなくなったので以後年賀状に返事は書けない、との趣旨の添え文が書かれていた)それ以来足腰が不自由で、外出時は夫人が車椅子を押す老老介護の状態であられたようだ。その車椅子が電動車椅子となり、恩師がそれを操作するようになってから、外出時に近所の坂を上がるとき夫人がついて行けなくなることが発生したようで、恩師はそのことを非常に悔やまれていた。
これで話を終わられたかと思っていたら、「もう一つ」といって恩師は以下のようなエピソードを語られた。
夫人の父親(つまり恩師の岳父)は東京女高師の教授であった。当時東京女高師には多数の朝鮮半島出身の女子学生が学んでいたが、それらの生徒の寮に頻繁に特高警察による立ち入り検査が行なわれていた時期があり、岳父は特高警察に出向きそれに強く抗議したという。それを徳とした朝鮮半島出身の女学生の家族から岳父には定期的に贈り物が届けられ、岳父の死後には義理堅く残された家族に贈り物が届いていたようだ。
これは恩師が岳父の人徳をたたえるために紹介したエピソードだと思うが、以前の恩師であったらこのような行為を「アジア的な贈り物文化」として批判的に語っていたのではないかと思うにつけ、私はある種の感慨を持って恩師のこの部分の発言をきいた。
恩師はこれだけのことを時間をかけ、低い声でつっかえながら語った。
実は私の父は79歳のときに脳内出血に倒れ、それから数年はそれなりの会話ができる状態を続けていた。父が公の席で最後に発言したのは倒れてから約4年後に、関係していた国際的な団体がニュージーランドのオークランドで開催する大会で功労賞を授与されることになり、その団体の招待でオークランドに赴き、妹が書いて浄書した授賞演説の草稿(英文)を読んだときだ。妹によれば父はそのとき適宜アドリブを入れながら話をしたので「結構やるじゃない」と驚いたようだ。母はその国際大会の翌年に胆嚢癌で父に先立ったが、その時点では父は事態を正確にかつ継続的に認識していられる状態ではなかった。しかし認識がつながったときは、自分の看病のために母の早い死を招いてしまったのではないかと深く悔やんでいた。
そのような父の姿を見ている私は、父の姿と恩師の姿をどうしても重ねあわさざるを得ない。つっかえながらも、とにもかくにも亡き妻の思い出を語り終えられた恩師は、しかし私が挨拶に行っても私のことを認識されることはなかった。晩年の父がそうであったように、先に往った夫人に関する記憶が薄れることになられるのだろうか。恩師の精神的なレベルはどれくらい継続できるのだろう。絶え間なくそのようなことを自問しながら会場を立ち去り、春爛漫の住宅街を抜けて帰途についた。
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