私の名前はカーン(My Name is Khan)2010/06/02 21:27

中国とインド(1/2)
http://mumbaikar.asablo.jp/blog/2009/10/09/4621240
インドの神々、インドのお酒
http://mumbaikar.asablo.jp/blog/2009/10/21/4645651
で紹介したインド人の友人夫妻に、インドで発行されている本を買って送ってくれるよう依頼したところ、本と一緒に「やっとDVDがでたから」とこの映画のDVDが一緒に送られてきた。

本年前半のインド映画の大ヒット作といえばこの映画で間違いはないだろう。2/10に封切られてから4/4までの2ヶ月弱でのインド国内での映画館売上が7.3億ルピー(約15.4億円)、世界全体の売上がそのほぼ倍の3600万米ドル(約33.9億円)とインド映画としての海外興行実績を塗り替え中だ。主演はインドのトップ映画スターのShah Rukh Khan シャー・ルク・カーン、共演は9年前の大ヒット作Kabi Kushi Kabi Gham (ヒンディー語で「時には楽しく時には悲しく」の意。「家族の四季」という邦題がついて日本でも数年前に上映されている)で彼と共演したベテラン女優の
Kajol カジョル、のこの映画のストーリーを多少のネタバレ承知で紹介すると以下のような感じになる。

Rizwan Khan リズワン・カーン(回教徒)はムンバイの市営バス局に勤める修理工の息子だ。アスペルガー症候群のリズワンは音や色彩の黄色には過剰に反応するが、機械の修理には才能を発揮する。成績優秀なリズワンの弟Zakir ザキールは、奇行の目立つ兄を何かと母がかばうのが不満だ。ザキールはやがて奨学金をもらってアメリカの大学に進学、サンフランシスコでインドのハーブを使った化粧品事業を起業して成功を収め、母の没後(父は早世)兄を引き取る。インドで「奇行癖がある」程度の認識しかされなかったリズワンがアスペルガー症候群だということに気付くのは、渡米後に会う弟の嫁のHaseena ハシーナだ。

ザキールにセールスマンの仕事を与えられたリズワンは、ある日サンフランシスコ市内の美容院でバツイチのインド系の美容師Mandira マンディラ(ヒンズー教徒)と知り合いやがて結婚する。マンディラにはSameer サミールという男の子がいる。やがてマンディラはサンフランシスコの郊外で美容院を始め、リズワンもそこを手伝うことになる。幸せいっぱいのリズワンとマンディラとサミールの家庭が9月11日事件をきっかけに崩壊し始める。

カーンという回教徒の名前を掲げる美容院の客足は落ち、サミールは学校でいじめに会う。学校でのいじめが原因でサミールが死亡したとき、「回教徒なんかと再婚しなければよかった」と悲嘆にくれるマンディラに「回教の教えの基本は愛だ」と説明するリズワン。そのリズワンにマンディラは「アメリカの大統領に『回教徒だからといってテロリストとは限らない』といわせるまであなたに会いたくない」とくってかかる。アスペルガー症候群のリズワンはその言葉を額面どおりに受け取り、大統領に会いに行く長く苦しい旅に出る。

これはBollywood ボリウッドといわれる、インドの大衆映画なのでストーリーはハッピーエンドだといっておこう。

映画の題名My name is Khan は旅の途中でリズワンが繰り返す”My name is Khan. I am not a terrorist.” 「私の名前はカーン。私はテロリストではない」から来ている。

ストーリーの紹介はこれくらいにして、この映画について別な側面から少し語りたい。

この映画の取上げた「テロリストでない回教徒にとっての9.11以後のアメリカ」というのは重いテーマだ。というのは9.11直後のアメリカでは回教徒に対するヒステリアが高まり、アメリカに住むシーク教徒(シーク教徒は宗教上の理由で髭を生やしている。詳細は
カシミール問題
http://mumbaikar.asablo.jp/blog/2010/03/08/4933989
の[註 2]を参照されたい)がトバッチリでリンチ殺人されたり、プロファイリングと称して、テロリストである人物の特徴がリストアップされ、それに伴い「回教徒狩り」が行なわれ、回教徒であるというだけで罪もない人々が逮捕され、場合によってはこの映画の主人公のリズワンのように拷問を加えられたりしたからだ。

プロファイリングによるテロ容疑者のあぶり出しは今に至るも継続している証拠に、昨年8月にこの映画の撮影のため訪米した主演のシャー・ルク・カーンがニューヨークの一方の玄関口ニューアーク国際空港の入国管理窓口で別室に通され2時間の尋問を食らったり、当初主人公の弟のザヒール役に配役が決まっていた回教徒のAamir Bashir アミール・バシールがアメリカの入国査証がとれなかったため差し替えられたりといった事態を経験している。

余り外国では報道されていないが、この映画のサミールのように学校でいじめにあったり、回教徒の店が破壊されたりといった事態が数多くあったことも事実だ。

ただこの映画は、そのような9.11以後のアメリカの暗部にのみスポットを当てているだけではない。主人公は長く苦しい旅の中で、多くのアメリカ人の善意や、同じインド亜大陸出身の移民同士の連帯に支えられて、ハッピーエンドにたどり着く。そう、映画はアメリカには回教徒に対するヒステリアがあることは事実だが、個々のアメリカ人の善意が決して死んでいないのだということや、インド亜大陸出身者同士の連帯感も伝えているのだ。

これまでヒンズー教徒と回教徒の間の紛争や宗教を異にする男女の恋愛と絡めて取上げた映画はある。前者で言えば、インド製の映画ではないがこのブログでもとりあげたSlumdog Millionaire (邦題「スラムドグ$ミリオネア)
http://mumbaikar.asablo.jp/blog/2009/02/28/4144280
http://mumbaikar.asablo.jp/blog/2009/04/21/4258448
後者で言えばMani Ratnamマニ・ラトナム監督のBombayボンベイ(1995年。この映画も大分前に日本で上映された)あたりが日本でも公開されたものの中での代表作だ。

My Name is Khan はその宗教を越える愛の舞台をアメリカに移し、アメリカの事件であった9.11に関連させ、更にそれに翻弄される南アジア出身の人々の姿を描くことで、マサラ(ヒンディー語で「いろいろなスパイスをミックスしたもの」の意味)といわれるボリウッド映画のミックスを大きく変えて見せることで成功したのだと思う。

「日本人の作る映画ではこのテーマは考えつかないよなぁー」そんなことを思いながら2時間41分の映画を見終わった。

Helen Thomas ヘレン・トーマス – アメリカにおける言論の自由の限界2010/06/10 00:03

ホワイトハウス担当になり大統領のブリーフィングを受けたり(といっても通常は毎週の主席報道官のブリーフィングを受ける形だが)大統領専用機に追随するプレス用の飛行機に乗り込んだりできるアメリカのジャーナリストはWhite House press corps といわれアメリカのジャーナリストの中の特権階級だ。テレビで大統領や主席報道官のブリーフィングを見ていると、記者が質問のため手を上げると、大統領や首席補佐官が彼らをAnnアンとかMikeマイクとかファーストネームで指名する場面に出くわす。

日本の記者クラブ制度は「報道をニュースソースから制限する制度だ」として海外の報道機関には評判が悪いが、日本の記者クラブ制度に一番近いのが、ホワイトハウス内に事務所を構えるこのWhite House press corps だろう。日本のジャーナリズムがWhite House press corps のことを「ホワイトハウス記者クラブ」という言い方をすることがあるのは、いつも記者クラブ批判をあびることと、White House press corps の特権的な地位に対するやっかみが加わった屈折した感情の表現だろう。

英文Wikipediaにも登場するWhite House press corps に属する報道機関の名前を見ていて面白いのは唯一の海外の報道機関メンバーがカタールのテレビ局Al Jazeera アル・ジャジーラのRob Reynolds であることだ。実はWhite House press corps には指定席がつい最近まで3つあり、
Rob Reynolds はCNN やCNBC のベテランジャーナリストとしてこの指定席のひとつを占めていた関係でアル・ジャジーラの名前が連なっているのだと思う。

さてその残りの二人だが、二人とも女性のベテランジャーナリストだ。一人はこの記事の題名になったHelen Thomas で彼女は6/7に90歳の誕生日まであと2ヶ月のところでイスラエルについてインタービューで語ったことを問題にされ、White House press corps から身を退いた。もう一人のTrude Feldman は1963~69年まで大統領であったリンドン・B・ジョンソンをインタービューしたということからその年齢の推定がつくが、現在White House press corps からは実質的に身を退いているようだ。

Helen Thomas ヘレン・トーマスは最近の舌禍事件を起こすまでは、記者会見が行なわれる部屋の最前列に彼女の名前入りの椅子がおいてあったくらいの有名人物だ。大統領や報道官に自分の信念に基づきしつこく食い下がるので有名だった彼女の舌禍事件とは5/27にホワイトハウスで開かれていたアメリカにおけるユダヤ人の歴史を記念するイベントに来ていたユダヤ教の僧であるDavid Nesenoff デービッド・ネセノフからイスラエルに関するコメントを求められ

<Tell them to get the hell out of Palestine... Remember, these people are occupied, and
it's their land.
"they should go home" to "Poland, Germany,... America and everywhere else”
いい加減で連中がパレスチナから出てゆくべきだと伝えてほしい…[パレスチナ人]は自分の土地なのにそれが占領されているのだ。[イスラエル人は]自分たちの出身地であるポーランドや、ドイツやアメリカや各地に戻るべきだ。>

と彼の構えるビデオに向かって語ったことがYou Tubeなどにのって報道されたことだ。「ユダヤ人がアラブ人の住む土地におしかけてイスラエルという国が建国された」というのは、初代のイスラエルの首相であるBen Gurion ベン・グリオンも認めていたように事実だ。彼が1956年に行なった発言を再現してみよう:

<Why should the Arabs make peace? If I was an Arab leader I would never make terms with
Israel. That is natural: we have taken their country
何でアラブが平和を探ることがあろう?私がアラブのリーダーであればイスラエルとの和平など考えないだろう。当たり前のことだ、我々は彼らの国を奪ったのだから>

その事実認識に基づいて、表現の仕方はともかく、パレスチナを去るべきだということを指摘すると言うことは至極当たり前のことだが、それをアメリカで言うには相当な覚悟が必要だ。

アメリカにはイスラエルに住んでいるのと同じくらいの数のユダヤ人が住んでおり、彼らの社会の各方面にわたる政治資金供給力を含む影響力のせいでアメリカはイスラエルの大支持国で、イスラエルの財政の大きな部分はアメリカからの軍事援助と、アメリカに住むユダヤ人からの送金でまかなわれていて、オマケにそのアメリカからの送金はアメリカの税法上経費処理ができる、という状態で、アメリカとイスラエルの関係は切っても切れない関係にある。

大学1年の英語の教材で使っていたイギリスの歴史家アーノルド・トインビー(1889~1975年)の文章に「本来第二次世界大戦の敗戦処理の一環としてドイツの一部をユダヤ人の国家として割譲させるべきであった」といった趣旨のものがあったが、この考え方は今回のトーマス発言と共通の底流からうまれている。ただこの種の見解は「アメリカは本来インディアンのものだったのだから、ヨーロッパを始めとする移民はすべて母国に帰るべきだ」というアメリカそのものを否定する立場にもつながる。

トーマスはこれら一番アメリカが敏感な部分に触ったのだ。

トーマスは自分の発言は不適切であったとの謝罪を発表したが、予想通り「発言が聞き捨てならないものと」してとらえられ大問題になり、各方面から批判され四面楚歌の状態になるに及んで彼女はWhite House press corps のメンバーを辞任した。オバマ大統領は彼女のこの辞任についてright decision 正しい選択であったとニュースショーで表明、同じ番組で彼女の発言を
offensive 侮辱的、 out of line 場違い(今様に言うとKYですかね)と形容した。

「89歳の老人のやったことだ」と情けをかけるのはよそう。彼女はWhite House press corps に名を連ねていたプロのジャーナリストだ。明らかに間違った場所で、間違った相手に、自分の信条であったとしてもアメリカでは公開の場で表明することが許されない意見を表明してしまったのだ。言論のプロとしての彼女にはアメリカの言論の自由には限界があることをわきまえた発言をすべきだったのだ。

もうひとつ指摘しておこう。もしアラブ諸国を筆頭とする世界の回教国が即座に彼女の発言を「実にもっともなことだ」といって彼女の支持に回った場合、そして彼女に対する圧力に抗議して1973年の第一次石油危機のときのように石油禁輸などの手段を講じた場合、恐らくアメリカ政府は事態の沈静化に向けて動き、彼女の謝罪は受け入れられ、彼女がWhite House press corps を辞める事態にはならなかっただろう。

高邁な理想を説いたとしても、アメリカの言論の自由はある部分では力のバランス次第でどちらにも転ぶものだということを理解しておこう。

Teslaテスラ – トヨタはさすがにしっかりしてる2010/06/13 10:37

テスラが交流送電を考えたアメリカに移住したセルビア人Nikola Teslaニコラ・テスラ のことだと知っている人は科学史にかなり詳しい人だし、磁界の強度を計る単位としてテスラを知っている人は電気や電子に強い人だ。

しかし今テスラといえば一般には「アメリカのシリコンバレー発の電気自動車を作る会社の名前」といったほうが通るのかもしれない。

Tesla Motorsテスラ・モーターズは2003年に電気自動車を製造することを目的として設立された。2004年に現CEOのElon Muskイーロン・マスクその他の投資家が750万ドルの私募株式の引き受けに応じ会社として軌道に乗り、マスクは2008年にCEOに着任した。その後もテスラはマスクがかなりの部分を引き受ける形でどんどん増資を行い、増資に付き合った人の中にはGoogleグーグル創始者のSergei Brinセルゲイ・ブリンとLarry Pageラリー・ページなんていう人もいる 。

マスクは1971年南アフリカに生まれた天才企業家で、1999年に自分の兄弟と共に設立したZip2という会社をパソコンメーカーのCompaqコンパックに売却して現金2200万ドルを手にしたといわれるのに始まり、電子決済のPayPalを1999年に設立して2002年にこれを電子オークションのeBayイーベイに売却、計算上は1.8億ドル相当のeBay株式を取得している。

テスラ・モーターズより一足先の2002年にマスクは宇宙ロケット開発のSpace Exploration
Technologies (SpaceX)を設立しアメリカ政府から現役を引退するシャトルに代わる国際宇宙センターへの貨物輸送契約を取得している。Space Xは2009年7月には自社開発の二段式ロケットのFalcon 1を使ってマレーシアの人工衛星RazakSATを赤道上の衛星軌道に投入することに成功し、本年6/4には一段目にFalcon 1のロケットエンジンを9本装着したこれまた自社開発の二段式ロケットのFalcon 9の打ち上げ、搭載していた衛星の衛星軌道投入に成功している。SpaceXのウェブサイトをみると2015年までNASAを中心に26の打ち上げ予定が入っている。SpaceXは「週刊ダイヤモンド」6/12号の宇宙ビジネス特集で、破格の安さで打ち上げを提供する企業としてちょっと登場する。

ちなみに映画「アイアンマン2」の主人公Tony Stark トニー・スタークはマスクがモデルで、彼は映画にcameo roleチョイ役で登場するほか、映画のロケ場所にSpaceXのロケット製造工場を提供するなどしており、エンディング・クレジットに彼の名前が登場する 。

これだけ読んでいると「カッコイイ天才企業家」そのものだが、マスクは天才だけあって破天荒な人物だ。前出の週刊ダイヤモンドにホリエモンこと堀江貴文が登場し(彼もロケット開発やってるんですねぇ)面識のあるマスクのことを高く評価しているが、破天荒な人物どうし相通ずるものがあるのだろう。

マスクは売れないSF作家のJustine Muskジュスティーヌ・マスク(ペンネーム)と結婚し、5人も子供をもうけたが、マスクが愛人を設けたことが理由で現在は離婚訴訟中だ。訴訟の理由はマスクがジュスティーヌと結婚する際に結んだPost Nuptial Agreement結婚契約書(離婚の多いアメリカでは、離婚した際の財産の分割方法などを決めた契約書を結婚の際に締結する例が多い)の契約内容の変更を求めているからだ。マスクの資産の大きな部分はテスラの株式だが、これまで数次の増資の過程の株主間契約ではマスクの持株比率が規定されており、結婚契約書に基づきジュスティーヌに株式を分与するとこの株主間契約の条件に抵触するからだ。

マスクは2月に裁判所に対して「私は4ヶ月ほど前からお金がなく、友人たちからの借金で食いつないでいます」という上申書を提出している。上申書によれば毎月の収入をはるかに上回る20万ドルの出金があるということだ。無論、離婚訴訟に伴って裁判所に提出している上申書だから割り引いて読む必要があるが、生活費で毎月2000万円近くの出費があるというのもビックリだが(まあアメリカのお金持ちはなかなか生活を切り詰めませんからねぇ)、毎月1000万円単位のお金を継続的に貸してくれる友人がいるのもビックリだ(さすがにすごい太っ腹の友人がいるんだなぁ)。

ここまで書くと「SpaceXのほうはどうなんだ」と心配になるが、こちらは打ち上げスケジュールが確定しているため利益が出ている格好になっているし、資金繰りがつかないような事態になれば、
NASAつまりはアメリカ政府の宇宙開発計画に支障が出るので紆余曲折があっても何らかの着地点は見つかることになろう。

さて、5/20トヨタ自動車はテスラに5000万ドル出資すると発表した。日本の新聞では豊田章男社長がテスラに試乗して1ヶ月で決めたことや、トヨタが閉鎖を決めたカリフォルニアにおけるGMとの合弁事業NUMMIにテスラが4250万ドル出資して電気自動車の製造工場に転換することばかりが報道されているが、皆さんまるで不勉強だということがよくわかる。

テスラが上場準備のためにアメリカ連邦政府のSECに提出しているS-1フォームなどをみると、トヨタの5000万ドル出資は本年末までに上場することが前提となっておりかつ「上場時の株価で
5000万ドル相当の株を買う」という契約になっている 、テスラによるNUMMIへの出資はそれとは切り離して即座に実行することになっているし、テスラが4250万ドルで買うものは建物と土地だけだ 。さすがトヨタ。きちんと押さえるところは押さえている、2009年に目を瞑って「イーロン・マスクに賭ける」と5000万ドル張ったベンツのメーカーのダイムラーとは違う(ダイムラーの出資の際の主要条件はマスクが経営から離れるとき後任の経営者に関して拒否権がある点)。改めてトヨタを見直した。と思って契約書を読んでいたら一点だけ画龍点晴を欠く部分があった。取得した株が簡単に売れないようになっているのだ。それにしても、これだけの条件をきちんと取ってきたことは日本企業としては立派だ。

二都物語 -- トロントとモントリオール2010/06/24 20:40

仕事でカナダの主要都市であるトロントとモントリオールを訪問した。人口340万[註]のモントリオールは元々カナダの経済の中心であったが、1970年代から人口の過半を占めるフランス系住民の意向を反映してフランス語優先政策を徹底し始めてから産業が撤退をはじめ、現在は人口477万のトロントに大きく差をつけられている。1970年代中頃にアメリカのビジネススクールに留学していた際、寮の同じブロックに父親がモントリオールにある保険会社の重役をしているユダヤ系のカナダ人がいて、その頃から「オヤジが『仲間がモントリオールからどんどん事業を引き上げてトロントに移している』といっている」という話をしていたが、この間を事情を雄弁に物語っている。

[註] 以下人口値はすべてStatistics Canadaカナダ統計局のCensus 2006(国勢調査)の5歳以上の人口統計に準拠。

1997年の香港の返還前に、資金のある香港人は同じ英連邦のカナダに多数移住した。日本では多くの香港人の行く先が人口199万の西海岸のバンクーバーだと思われているが、その実、バンクーバーから東へ3400キロのトロントに住み着いた人のほうが多い。カナダ統計局の集計した移民のうちEastern Asia東アジア全体とSoutheast Asia東南アジアの半数を「中国系」と仮定すると、トロントの中国系住民の数は46.4万人で、35万人のバンクーバーより多い。5、6年前にトロントに行った際、中国系の友人に中国人用のショッピングモールに案内してもらったことがある。大きなビル全体がショッピングモールになっていて、中の店舗はほとんどが中国系、客もすべて東洋人で、「異民族」はガードマンの黒人だけ、週末ということもあって中はごった返しており独特の喧騒に満ちていた。「こんなショッピングモールがトロント市域で5箇所ほどある」といわれて驚いた記憶がある。

今回トロントに行って驚いたことは、たまたま到着した時間のせいもあるが、空港にインドの別々な航空会社の航空機(インドの空が国営のAir Indiaエア・インディアとIndian Airlinesインディアン航空の二社に独占されていたのはその昔の話だ)が二機駐機していたことだ。迎えに来てくれていた件の中国系の友人にそのことを言ったら「確かにインド人の数も増えている」といわれた。カナダ統計局の数字をみるとトロントのSouthern Asia南アジア系住民の数は41.3万人なので確かに中国系と拮抗する勢力だ。町をドライブしていても移民人口が232万人だけあって中国系を始めとする非白人が目立ち、「なるほどトロントは自分のモットーDiversity Our Strength『多様性こそわが力』を地で行っているな」と言う印象だった。

そのトロントから飛行機で東へ約1時間のモントリオール。ターミナルが3つあるトロント空港に比べターミナルは1つだし、新しい建物があっても私が最初に行った1976年にあった部分も残っていて供用されている。モントリオールのインフラは今では高級マンションとなったHabitatハビタットで有名な1967年の万博と、ルーマニアの女子体操選手ナディア・コマネッチが大活躍した1976年のオリンピックで整備されたが、その後町がさほど発展していない。空港から街中に行く高速道路の痛みが目立つし、地元の人間が「昔のニューヨークのシーンの撮影のために使われることが多い」ということからわかるとおり街中には余り新しいビルが見られない。高速道路について言うと、冬季に融雪のため食塩をまくにもかかわらず、ほとんどが鉄筋コンクリート造であるため中の鉄筋が錆び、それに沿ってコンクリートの表面にヒビが浮き出ているので結構剥落もあろうと思われる状態だ。日本に比べればずいぶんといろいろな民族が暮らしてはいるがトロントには及びもつかない。街中には「唐人街」と表記された部分はあるが中国系の数は7.3万人に過ぎない。そもそもモントリオールの人口における移民の数が74万人で、トロントには遠く及ばない。

しかし、モントリオールはジャズフェスティバルで有名だしサーカスに新境地を開いたCirque du
Soleilシルク・ドゥ・ソレイユを生んだ町でもある(シルク・ドゥ・ソレイユは日本にも進出しZEDという常設の劇場を運営している)。
http://www.zed.co.jp
カナダ国内ではモントリオールはトロントに経済の中心としての立場を譲ってからは、文化の中心としてその存在を知られているようだ。

モントリオールをたつ日曜の朝、空港に行くバスを待っていたらフランス語訛りで「$25(約2200円。本来の料金は$38)でどうだ」とタクシーの運転手に声をかけられて彼の車に乗った。

この二都の姿を見ていると「多種多様な人たちが集まるような環境を整えること即ち経済発展の条件である」という仮説が成り立つと思う。これに対してモントリオールの人たちは、「自分たちは経済発展ではなく文化を選んだ」と反論するのかもしれない。しかし多種多様な人たちも一定の経済発展をとげた後は「文化」を指向するのではなかろうか?そしてそのようなエネルギーが集中し始めたとき、果たしてモントリオールの「文化の優位性」はどうなるのだろう?フランス系カナダ人の文化としての特異性は残るとしても、それだけで多様性の中から生まれた文化に抗し得るのだろうか?

もっとも北米にはカナダの9倍の人口と11倍の経済規模を持つアメリカがあり、そこにはニューヨークのブロードウェイを始め、いくつも多様性の文化の華が存在している。多様性の文化は多様性の文化同士で競合することになり、カナダの多様性の文化はアメリカのそれの中に埋没してしまい、そのようなときに頑なにフランス系カナダ人としての独自性を主張するケベックの文化は存外その存在を主張しうる存在なのかもしれない。

そんなことを考える私を乗せたタクシーは小雨の降る中メーターは空車の状態のまま路面が不安定な高速道路の上をガタガタ走りながらモントリオール空港に向かった。

水のなるほどクイズ2010