シリアの花嫁2009/02/22 19:38

秀逸な人物像の描写とストーリーの構成に支えられた必見映画だと思う。

アジア的とでもいうべき宗教の掟に裏打ちされた濃密な絆で結ばれた村。村の娘モナが軍事境界線の向こうシリアにいる、写真とテレビ(花婿タレルはシリアの売れっ子コメディアンという設定)でしか見たことのないタレルと結婚する朝。いったん親兄弟の住むイスラエル占領下の村を出てシリアに行ってしまうと、いつイスラエル占領下の村に帰れるかわからない、つまりは親兄弟と生き別れになってしまう可能性がある。濃密な絆の中で育ったモナの身を切られるような思い、身を切る思いでモナを嫁がせる家族の思い。この登場人物それぞれの感情描写を見ながら私はボロボロ涙を流した。どうも最近トシのせいかこのような家族の関係を描いたシーンに弱い。昨年1月に封切られた山田洋次監督の「母べえ」でもボロボロやってしまった。

映画はそこここで、この村の濃密な絆の有様を垣間見させてくれる。しかしイスラエル占領下の村にとどまっていても先が見えない。先を求めるなら男もそして女も新天地を求めて村を出なければならない。そこで新しい仕事や人との関係が築かれ、その関係が濃密な村の絆に抵触する場面も出てくる。村に残ってイスラエルへの抵抗活動で逮捕された父ハメッド、おなじく村に残って不本意な結婚生活を送る姉のアマル、妹の式のため国外から村に戻ってきた兄たち、そして村を出て行くチャンスを目前にしたアマルの娘。映画はこれらの人物像と彼らの間の葛藤を巧みに描くことで、村を出たものと村に残ったものとの価値観の相違を浮き彫りにしてゆく。残って居心地がよいが先の見えない村での生活に縛り付けられるか?再び帰ることのできないリスクをおかして村を出て行くのか?

映画の後半、モナはイスラエルとシリア両国間の意地の張り合いに巻き込まれ軍事境界線を越えて花婿の待つシリアへ「出国」することができなくなる。いつまでたっても埒のあかない「出国」が実現する前に、モナは境界線のゲートが開いた隙にシリアに向けて境界線間の無人地帯を歩き出す。アマルは妹が自分の運命を自分の手に持って歩き出す姿を確認して現場を離れる。映画はモナの単独行がどういう結末に終わるのかを知らせずに「終」という言葉も示さずにブラックアウトしてエンディングタイトルに移る。ブラックアウトはモナの身に起こるであろうことの暗示か?

最後に二点。決してイスラエルの占領地に対する政策を好意的に描いているわけではないこの映画が、アラブの国ではなくイスラエルでしかも政府の映画振興資金までついて制作されたという点に注目したい。二点目。この秀作が2004年に制作されてから何で5年もたった2009年に封切られることになったのか、日本の映画配給関係者の怠慢を叱りたい。

コメント

コメントをどうぞ

※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。

※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。

名前:
メールアドレス:
URL:
コメント:

トラックバック

このエントリのトラックバックURL: http://mumbaikar.asablo.jp/blog/2009/02/22/4135581/tb

※なお、送られたトラックバックはブログの管理者が確認するまで公開されません。


水のなるほどクイズ2010