映画 This is England2009/03/25 19:29

イギリス映画には貧しい階層の出口のない閉塞感を扱った秀作がある。思いつくだけでも「トレーンスポッティング」(初上映1996年)、「フル・モンティー」(初上映1997年)、「やわらかい手」(初上映2007)などがそれだ。This is England(初上映2006年。日本での上映は2009年。いつも書くことだがどうして日本での上映はこうも遅れるのだろう)もこの手の作品だ。

学校でいじめに会った帰り道、毎日酒を飲んでマリファナを吸うしかない人生を送るスキンヘッド(頭を坊主狩りにした英国の貧しい階層出身の不良青少年)の一団に拾われた少年が主人公だ。暴力的な力で少年が加わった一団を二つに割いた刑務所を出所した男が誇示する暴力が、その実その男の精神的な弱みのカバーでしかないことを見た少年がその男と決別するとき、少年はひとつの成長を遂げたことを暗示するシーンで映画は終わる。

「フル・モンティー」は北イングランドのシェフィールド市の失業した労働者たちが当面の「仕事」をみつけるまでのプロセスをコミカルに描き、「トレーンスポッティング」はスコットランド(イングランドの更に北)のエジンバラ市のこれまた失業しヘロイン中毒の若者たちの生態を描いている。「やわらかい手」はロンドン郊外に住むおばあちゃんが難病の孫の治療費を捻出するための努力に関する話だ。

4本とも終わり方としてはいわゆるハッピーエンディングではなく、「その後彼らはどうなるのだろう?」という感じをもたされる。「トレーンスポッティング」の登場人物たちが逮捕されたり逃走したりしてもその日暮らしの刹那的な存在から脱却できたわけではない。「フル・モンティー」の登場人物たちが男性ストリップショーを成功させても、興行がいつまでも成功し続けるわけではない。一番ハッピーエンディングに近い「やわらかい手」にしたところで難病の孫が治る保証はないし、おばあちゃんが風俗店店主とうまくやってゆけるかどうかも不明だ。まあおばあちゃんの場合は風俗店店主とうまくやって行けなくても年金があるからいいか。This is Englandの少年が暴力的な男と決別してもスキンヘッドの一団とのかかわりが続けば今の状況から抜け出す糸口がつかめない。しかしこの「出口のなさ」から来る「その日ぐらし的」なことこそがその実、彼らの人生そのものなのではないだろうか?

ヘロイン漬けのトレーンスポッティングの若者にそもそも正業に就く意思などあるのだろうか?製鉄工場で働いていたフル・モンティーの主人公たちが、どのような新しい仕事を見つけられるのだろうか?スーパーのチェッカーではそれまでの生活水準を維持できない。父親が戦死した母子家庭に住むThis is Englandの少年にしたところで家に帰ってから母親が帰るまでは一人だ。その一人だけの時間を有効に使えるのかどうかが彼の今後の人生を決めうる要素だろうが、はたしてそれが可能なのだろうか?

最近日本映画も結構見るようになった。現代日本の社会も「トレーンスポッティング」や「フルモンティー」の時代のイギリスと同じく成長は止まり、活躍できる幅が限定され閉塞感がある。そのため若者の余ったエネルギーはオタク的な世界への逃避したりする。しかしそのような閉塞感をとらえた秀作に余り遭遇しないのは、1960年代から1990年代初頭まで閉塞の時代が続いたイギリスに比べると我々の閉塞の経験がまだまだ不足だからだろうか?

ところで、1990年代終わり頃から経済成長を謳歌したイギリスは当時のブレア首相自らが愛国歌「ルール・ブリタニア」をもじった「クール・ブリタニア」を標榜していた。そのクール・ブリタニア体現した、多民族で、機転がきいて、夢のある社会をイメージした一連の映画群がある。「ブリジリット・ジョーンズの日記」(初上映2001年)やヒュー・グラント演じるイギリスの首相を含む数組の男女それぞれの恋愛を扱った「ラブ・アクチュアリー」(初上映2003年)などはこの傾向を表す代表的な作品であろう。しかし再度イギリスの経済が不調になる可能性が見え隠れする今日このごろ、この「クール・ブリタニア」群の傾向がどこまで続くのか見ものである。

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