インドの民主主義2009/04/01 22:21

今月から来月にかけてインド下院Lok Sabhaの総選挙が実施される。「今月から来月にかけて」と書いたのはインドには7億人弱もの有権者がおり、前回(2004年)の総選挙を例にとっても4億人近くの人が投票するので、混乱を避けるため4/16, 23, 30, 5/7, 13の5回に分けて総選挙が実施されるからだ。開票日は5/16で、これまでの例で言えば概ねトラブルなく開票結果が出揃う。概ねといったのにはわけがある。投票箱が消えたとか、投票人名簿や開票に不適正があったとか言う話しはあまり聞かないが、投票結果をめぐっての乱闘などで毎回二桁単位の死者が出るのである。

現在の下院には40近くの政党が議席を有しているが、これが概ねIndian National Congress(通常Congressと略される)を中心とするUnited Progressive Alliance(連合進歩同盟)、Bharatia Janata党(通常BJPと略される)を中心とするNational Democratic Alliance(国民民主同盟)と左派政党群の3大会派とこれらの会派に属さない少数政党に分かれている。連合進歩同盟が最大会派で現在政権を握っていて、適宜左派政党群や、三大会派に属さない政党と手を結んで政局運営をしている。

インド人はよく自国のことをWorld’s largest democracy(世界最大の民主国家)と形容する。民主主義のことを「政党が自由に構成でき、その政党の推す議員が国民の普通選挙によって国会議員となることができて、その国会が国権の重要な一翼を担う政体を持つ国」と定義すればインドは間違いなく民主国家である。この点は中国共産党一党独裁で、全国人民代表大会という言ってみればシャンシャン株主総会のような存在しかない中国とインドを分ける大きな違いだ。

国権の一部を国会が握っているが、その国会でさまざまな党派の利害が対立するので、議論が紛糾してなかなか結論が出ないケースが多々あるし、「国会でらちがあかないので国民に信を問う」といって国会を解散すると政権が変わることもまたある国柄だ。

インド初代首相ネルーの娘インディラ・ガンジーが首相となり、国会の混乱に業を煮やし1975年に非常事態宣言を発し独裁政治を2年間続けた後に1977年に総選挙を実施したところ大敗を期した。ガンジーは総選挙を無効とすることなく下野した。

政権交代があるためか、報道の自由もかなりの程度確保されている。インドの民主主義はなかなか強固な一面もあるのだ。

Wikipedia日本版では民主主義のことを

個人の人権である自由・平等・参政権などを重視し、多数決を原則として意思を決定することにより、人民による支配を実現する政治思想である。

と定義している。「この定義が概ね正しい」と言う前提で「インドの民主主義」をみてみると、「参政権などを重視し、多数決を原則として」の部分は当たるが必ずしも自由、平等などの原則が広範に浸透していないのも事実だ。それではインドの民主主義とは何だろうか?

2年前のインド独立記念日の8月15日に英国のBBC放送が特集番組を流し、そこで「インドの民主主義」の特質を

 共通の歴史や言語に依拠する国民国家モデルによるのではなく
 ”is premised on a national myth of plurarism”(多様性神話の上に
 成り立っている)

と解説したことがある。

確かに、読み方が違っても漢字を共通の読み書きの手段とする漢民族が圧倒的多数を占める中国と、お札を見ても英語を含む17言語が刷ってあるインドでは多様性の程度が違う。

中国は秦の始皇帝以降、幾度となく統一されたことがあるが、インドはアショカ大王(紀元前304-232年)の以降英国に征服されるまで統一されたことがない。

儒教と道教と仏教がなんとなく交じり合って信仰されてきた中国と、既存のヒンズー教の他に、他の宗教との融合を拒否する回教が一大勢力として存在しているインドでは「文化や言語が異なっても同一の宗教で結ばれている」と言うこともない。

このような多様性そのもののようなインド亜大陸でインド独立をめざした志士たちにとって、「インド」という抽象的な概念をひとつの国として独立運動をおこし、統治者たるイギリスに自分たちがその「インド」を代表することを認識させるには「自分たちが多様性を基本とする民主主義に選ばれた」ことを標榜することによってのみ、彼らの存在を合理化することができた、というわけだ。

一応この多様性の神話が存在しているものとすれば、現実のインド人はどうその民主主義を生きているのだろうか?

Slumdog Millionaire
http://mumbaikar.asablo.jp/blog/2009/02/28/4144280
でも書いたように、インドには約8億人という膨大な数の貧しい人々がいる。直近の総選挙である2004年の下院総選挙ではその彼らの60%弱が投票している。

その2004年の総選挙ではBJPからCongressへ政権交代が起こった。当時インドの経済は好調に成長していたのでこの政権交代は意外感をもって迎えられ、後付で「国民の多数を占める農村を忘れた経済成長を政府が主導していたため」といった解説がついた。農村には貧しい人々が多数住んでいるが、確かにこの層の票が動かなければ政権交代は起きない。しかし何で彼らがBJPを下野させるような投票行動をとったのだろう。

Slumdog Millionaire
http://mumbaikar.asablo.jp/blog/2009/02/28/4144280
でも書いたように都市部のスラムの票はスラムを牛耳るslumlordに仕切られ、slumlordの望む方向に票が動くといわれている。政治家にとってスラムは票田なのだ(ちなみに票田のことを英語ではvote bankというが、意味するところは「金庫票」といった感じだ)。しかしその政治家とslumlordの利害が一致しなくなればslumlordは自分のコントロールする票を別な政治家に提供することになる。

地方の場合でも、地方の有力者と零細農民の間の関係は似たようなものなのではなかろうかと考えたくなる。

しかし日本の例で見ていると特定の政治家と彼の票田との利害はそう簡単には切れないものではなかろうか?これが動くと言うことはインドの地方政治家の提供するサービスがよほど少ないのか、それともインドの選挙民の票が意外に票田化していないからなのだろうか?

インドの選挙はウィークデーに行われる。聞くところによると地方では投票はハレ着を着て行くようなハレの行事で「投票くらいは自分の意思でやりたい」と語る地方の住民が多いと言う。

私には政治家が持ってくる利権がしれているため、失うものが少ないインドの地方の選挙民は「選挙のときくらいは自分の意思を表明しよう」と言う投票行動をとるのではないかと思える。

政治家が介入することで政府にばらまかさせられる資金量がもっと多く、またその資金をあまり目減りさせずに末端に届ける政治家が増えれば、その政治家の票田はまさに金庫票となり政治は安定すると思うのだが…

G20ロンドンサミット閉幕2009/04/04 00:15

G20サミット閉幕

ロンドンで開かれていたG20サミットが4/2に共同宣言を出して閉幕した。一部の映像報道を見ていると(私はプロのウォッチャーではないのですべてのテレビを見ているわけではない)、アメリカのオバマ大統領とサミット開催国のブラウン首相が満面の笑みを浮かべて集合写真などに写っていたことが印象的だ。

 

それはそうだろう。今回の金融危機の直接の引き金を引いたのは世界の金融の中心を標榜していたアメリカ、イギリスの両国である。投機資金を世界中に流通させたアメリカとイギリスの金融をどう規制するのか、価格が定まらないために金融機関の資産価値に不安をもたらすもろもろの金融商品をどうするのか、と言った点で両国が批判の矢面に立ち、アレコレ厳しい対策を迫られて当然だったのに、ニューヨーク・タイムズの言葉を借りれば

 

On the critical question of how to grapple with trillions of dollars in “toxic assets” clotting the financial system in Europe and the United States, there was a declaration of goals but few specific actions.

欧米金融システムの流れをつまらせている数兆ドルに及ぶ不良債権にどう対処するのか、という重要な問題については、行動目標についての宣言はあったが見るべき具体的な対案はほとんどなかった

 

と言う状態だったのだから。金融規制に重きを置くべきだといきまいていたドイツ、フランスも結局はもっともらしいサミット宣言で面子を立ててもらって矛を収めた。

 

面白かったのはサミット後の記者会見でオバマ大統領が英国のBBC放送の記者の

 

Mr President, what were you unable to get at this summit?

大統領閣下、今回のサミットで貴下が成し遂げられなかったものは何ですか?

 

と言う想定外の?質問に対して珍しく言葉を詰まらせたところだろう。それくらい今回のサミットは米英ペースでまとまったとみてよい。

 

余談だが、こういうことをみているといつもながらの英米の交渉力の高さに感心させられる。ビジネスマンとしてあちこちの国の相手先と交渉してきたが、正直言って英米企業相手の交渉が一番シンドイ。中国やロシアの企業相手の交渉は「どれだけまけられるのか?」に収斂してゆくので単純だ。英米企業相手の交渉では値段自体は大して厳しくないかもしれないが、値段以外のさまざまな要素をコト細かに決め、その総合的なコストの中で判断しなければならないので本当にシンドイ。日本の企業はいざとなると「エイヤーで決める」伝統があって、そこまで自分の考え方がコト細かにまとまっていないのでなおさらだ。

 

今回のサミットで実際決まったことの中で一番実際の数字を伴ったものがIMFに対する出資である。日本は今回のサミットでIMFに対してアメリカとEUと同額の1,000億ドル(約10兆円)を大判振る舞いすることをコミットした。アメリカの1,000億ドルには議会の承認が必要なので、割引いてみる必要がある。1,000億ドルの意味をちょっと考えてほしいので以下の表を作ってみた。参考までに発展途上国中では多めの400億ドル(4兆円)の拠出を決めた中国も加えてみた。

 

 

一人当り

GNP

一人当り拠出額

拠出比率

日本

$35,309

$787

2.2%

アメリカ

$46,645

$326

0.7%

EU

$38,415

$200

0.5%

中国

$3,154

$30

0.9%

 

為替が激しく変動している今、アメリカにしてもEUにしても一人当たりのGNPは日本よりちょっと多いくらいとみてよいが、人口は数倍だ。そのため同じ1,000億ドルでも日本のほうが一人当たりでははるかに負担率が高いことがわかっていただけると思う。今回の拠出コミットは「火事場に大きな見舞袋を届けて大旦那ぶりをみせた」というところだろうが、他面国内政局の混乱やら内向きにしか目の向かない政治家のせいで国際舞台ではpunching below its weight(実力以下でしか活動していない)と揶揄される日本が批判をかわすため「せめて火事場の見舞金を弾もう」となけなしの金をはたいたとの見方もできる。とすればそのような政治家を選んだ国民は、そのことで随分高いお金を払わされていることになる。

 

日本国民はサミット後の集合写真で、大旦那なのに後列に立たされた麻生首相が満面の笑みでいられたのは何故だったのか考えるべきだと思う。

 

ちなみにこの集合写真では400億ドルの拠出を決めた中国の胡錦濤国家主席がいまいちパッとしない顔をしていた(この人、元々半分笑ったような状態で表情が固定しているが)。日本よりは相対的に少なくてもEUやアメリカに比べたら多めの負担をしたことやタックスヘイブンのことで言質をとられたことに対する反応だろうか?ちなみに中国は香港とマカオと言うタックスヘイブンを抱え、中国企業はカリブ海のタックスヘイブン国の提供する節税サービスの上得意先だ。

 

G20についてもう一つ興味深い点をあげると、日本の報道機関が概ね「G20財政出動500兆円 首脳宣言採択」(朝日新聞)の線、つまり5兆ドルを強調しているのに、私が見たアメリカやイギリスの報道ではIMFにコミットされた1兆ドルが強調されていることだ。日本の報道機関は宣言に表れた数字を額面どおり報道したが、アメリカやイギリスの報道のほうは「出す」と決まった部分を中心に報道していると言うわけだ。5兆ドルは本当に支出されるかわからないお金だとの認識はしておくべきだろう。

 

ちなみに1兆ドルにしても「真水」の部分がどれくらいかについては、今現在ハッキリした報道がない。

 

私は1兆ドルであろうが5兆ドルであろうがまだ足りないのではないかと思っている。これは日本一国の消費を本当に浮上させるには社会保険費が毎年100兆円(1兆ドル)くらい必要であるという認識とのバランスで書いていることだ。日本の2009年度政府予算案の歳出は51.7兆円、その中の「社会保障関係費」はその約半分の24.8兆円だ。100兆円というのが以下に莫大な金額なのかお分かりいただけると思う。世界の景気を復活させるのはそれくらい大変なことなのだ。

 

いずれにしてもG20が玉虫色の合意のつぎはぎであっても、喧嘩別れではなく合意に達したことは世界にとっては前向きの第一歩だったと率直に評価しよう。1933年に開催されたロンドンサミットは決裂して世界は第二次世界大戦に向かって行ったのだから。

今こそ社会政策の拡大を(1/3)2009/04/11 00:37

野村総合研究所主任研究員のリチャード・クー(辜朝明)氏のバランスシート不況論というのはビジネスマンの私には大変納得の行く理論だ。

景気が悪くなればビジネスが本能的に最初にとる行動は「身を縮めて景気がよくなるまで体力を温存する」ことだ[註 1]。新規投資はなるべく控え、在庫を減らし、賃金カットや人員削減も含めコストダウンに励む。こうすることでお金が余ったら、借りていたお金はどんどん銀行に返済する。こうなると政府が金融を緩めたところで、そもそも資金需要が減っているから銀行がお金を貸したくても貸せない。大体民間部門がこの調子で身を縮めていれば新しい需要なんて出っこない。縮小の連鎖が経済全体にも及ぶから、こういうときには政府が官需でガンガン需要を創出していかないと不況になる。クー氏は「こういうときは穴を掘っては埋めるようなことでもよいから政府が公共需要を創出してゆかなければならない」という趣旨のことを言っている。[註 2]

しかし「穴を掘って埋める」というのはあまりにも芸がない話だ。そもそも日本にこれ以上どれだけ道路や鉄道や空港をつくる必要があるのだろう?つくりすぎた道路を壊し、埋めすぎた海岸をまた白砂青松の昔に戻すか?(まあこれは確かに必要な公共工事だとは思うが)

企業の設備投資が低迷し、政府によるハコモノ投資には意義が見出せない、ということであれば後は消費の出動か輸出を増やすしか手がない。後述するように私は「輸出を増やすのはあまり感心しないことだ」という考えだ。従い私の推すのは消費の拡大だ。

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[註 1] 長年企業に勤めている人間の目からするともうひとつ、「組織や人事をいじってみる」というのも最初にとる行動だが、こちらはマクロの経済とはあまり関係ないのでここでは考慮対象外とする。

[註 2] クー氏の立派なところはこの論を日本国内だけで展開するのではなく、著書や海外での講演活動などを通じて海外にも発信しているところだ。ちなみに英国のフィナンシャル・タイムズ紙の経済論説主幹のマーティン・ウルフ氏は論説で数度クー氏の考え方を取り上げており、クー氏の著書The Holy Grail of Macroeconomics(「マクロ経済学の究極の目的」といった意味)をbrilliant book(秀逸な本)と紹介している。

今こそ社会政策の拡大を(2/3)2009/04/11 00:50

「失われた十年」の真っ最中、私は日本の消費が低迷する理由は以下の三つの世代のそれぞれ固有の生活行動に起因する構造的な要因があると見ていた:

1. 資産のある高齢者世代(イメージとしては第二次世界大戦の頃に青年~大人になっていた世代)。元々この世代は「ほしがりません勝つまでは」と言う生活態度が身に染み付いており「孫へのお土産」以外あまり消費の意欲がない。ところが、あろうことかバブル期に金融機関が勧める相続税対策で相当な借金を背負い込んで、その借金返済に追われている。年金も大した金額をもらえているわけではないので、消費どころではない。

2. その高齢者世代の子供の世代である団塊世代~1950年代生まれの層。概ねバブル期以前に住宅を手当てしたので住宅ローン負担がそれほどではないが、リストラ風が吹き荒れる中、将来に対する不安から貯蓄を積み増していて、ゆっくり消費に回す気持ちになれない。

3. 団塊世代の後の世代(概ね1950~60年代前半生まれの層)。バブル期に住宅を手当てしたので資産が相当目減りして、未実現の損を抱え込んでいる。高い不動産を、バブル時代のように収入が増え続ける前提で購入したので住宅ローンの負担が過大になっており、それに子供の教育やらが重なるのでとてもではないが消費に回すようなお金の余裕がない。

「こういう状況なので、これらの人々の不安が取り除かれないと日本の消費は伸びないのではないか」と言うのが当時の私の結論であった。

それから10年近くたった今の状況はどうだろう?私は上記の結論はいまだに有効であると見ている。各世代の生活行動を類型化してみてみよう。

1’. 資産のある高齢者世代の多くは他界している。

2’. 団塊世代は今年度(=2010年3月)中にほぼ全員が定年を迎える。大企業や、もうかっている中小企業の取締役になっている少数の人を除けば「現役」時代に比べ概ね所得が半分以下になっている。所得が半分でも住宅ローンの支払も終わっているし、子供も独立しているのでまずは生活が以前に比べて安定している。しかし老後の生活の心配があるし、場合によっては親から相続した借金をしょっているので、そんなに思い切って消費にお金を回せる状況ではない。しかし、この世代の人口が多いこととあいまって、日本の消費はこの世代の動向次第だ。

3’. 1960年代以降生まれの層は失われた十年の「耐乏生活」を抜け出し、上の方の世代の人の場合は子供も手を離れはじめ、ようやく少し余裕が出てきたところだ。そのタイミングで今回の金融危機に遭遇し「ヤレヤレまたか」と言う感じでいる。しかし彼らは「耐乏生活慣れ」しているので景気の変動に対する生活習慣の対応が早い。日本の消費が急速に冷え込んだ背景には彼らのこのような消費行動があるのではなかろうか?彼らには「日本の社会保障基金の不足」との宣伝が行き届いているので、どうしても老後の生活への心配から貯蓄志向になりがちだ。ただし、このグループは後の方の世代になればなるほど「低金利が当たり前」と思っているので、高金利になったときの備えが不足している可能性がある。

いずれの世代を見回してもあまり消費が伸びるような印象は受けないが、いずれの世代にも共通するキーワードは「老後の生活への心配」だ。1960年代生まれ以降の世代については耐乏生活慣れという要素が付け加わっている。このような不安を取り除かねば日本の消費は伸びない。

耐乏生活を数字で追ってみよう。厚生労働省の「平成18年(2006年)国民生活基礎調査」によれば全世帯の1世帯当たり平均所得金額は664.2万円をつけた1994年以来一貫して落ち続けており最新のデータである2006年には566.8万円まで落ち込んでいる。一人当たりの平均所得金額のほうは1997年に235.7万円をつけて以降一貫して年率1%強で落ち続けており2006年には213.9万円だ。ちなみにこの過去最高レベルの235.7万円に2005年の世帯の人員数2.68人をかけると631.8万円。「平成18年(2006年)国民生活基礎調査」によればこの年収631.8万円に届いていない世帯の数はなんと全世帯の約2/3にも達するのだ!

著名な経営コンサルタントの大前健一氏は「日本人がお金ばかりためて消費しない」ことをしきりに批判している。氏のように超高所得者な人はイザ知らず、このように「普通の人」は自分の将来におびえ消費どころではないのである。ここ数年は天下国家を論じるコメンテーターをしている氏ほどの著名経営コンサルタントがこのような基本的な事実を認識していないことには唖然とせざるを得ない。

今こそ社会政策の拡大を(3/3)2009/04/12 16:29

何で耐乏生活を送ることになったのか?この原因を解決しなければ社会保障をいくら積み増ししても問題の本質的な解決にはならない。

すべてとの原因とは言わないが、日本人の所得がなかなか増えない背景には飢餓輸出ともいえる、輸出主導の経済成長をしてきた日本の経済の行動にその原因があると考えられる。

飢餓輸出とは食うものも食わずにひたすら輸出することである。発展途上国などで国民が満足に食べていないのに外貨稼ぎのために食糧を輸出するケースなどがこの代表格だ。飢餓とまでは行かないが、輸出先の先進国の生活状況を見て「あいつらデッカイ家に住んで、ホリデーいっぱいとりやがって良いよなぁ」とか言いながらセッセと残業や休日返上で働いて輸出商品をつくるのは明治の開国以来「日本のお家芸」とでも言える行動パターンだ。そのためこれまで日本の輸出企業は輸出先のダンピング規制にひっかかって輸出禁止になったり相殺関税を課税されたり、そのダンピング規制を回避するため輸出の自主規制をしたりとさまざまな対応をしてきている。確かにダンピングの認定そのものには「輸出相手先の業界の政治力」といった要素がからむので、認定基準が必ずしも公平に見て妥当であるとは限らない。ただ、一般論として日本の企業がこれまで国内向けには輸出向けに比べ高い値段を設定したり、低めの仕様の商品を出荷していた、つまり「内外価格差」が存在していたのは歴然たる事実だ。この内外価格差があったために、バブル期以前には日本は世界で一番物価の高い国と形容されてきた。

当時メーカーが製品価格を算定するときに使う工場原価に対するマークアップ率は国内市場向けと輸出向けで差があった。日本の内需向け製品のメーカーの資材担当者から「何かの拍子で輸出向け価格を見る機会があると頭にくる」という話をよくきかされたものだ。

ちなみにアメリカの企業の場合、原則として国内より高い値段で売れる場合にのみ輸出に手を出すという行動パターンであることを知っておいたほうがよい。

ビジネスマンとして海外に出張した際の実感や、インターネット経由アメリカのオンラインショップの価格を見ていると、「失われた十年」を経て最近はこの内外価格差はほとんど埋まったといってよい。いやむしろ場合によっては逆転さえしているのではないかと思う。経済学的な分析の対象とはならないが、つい最近の円高までは中国人の観光客が日本にきてデパートやブランドショップの在庫をごっそり買って行ったとか、オーストラリア人がニセコの一角の不動産を買いまわっているとか、我々が海外に行くと物価が高いと感じる、といったanecdotal evidence(挿話的な事例)がこの間の事情を物語っている。

しかし当面内外価格差が埋まったらしいからといって、そのような体質が染み付いている日本のメーカーが、飢餓輸出から足を洗ったということはありえないと考えたほうがよい。昨今話題になる中国市場における原子力発電所用の機器商談などでこのような行動が復活しているとしても不思議ではない。

何でこのような行動が問題なのか説明しよう。このような行動は自分の所得の一部を削って輸出価格を下げること、つまりは本来得べかりし利益の一部を輸出先の海外に寄付することだ。日本の消費が低迷してきた大きな理由はこのような飢餓輸出まがいの行動を通じて国民の所得が生活の将来に不安をいだかせるところまで低下してきたからだ。更に問題なことは、このような行動をとることで付加価値の低い生産を温存し、結果的に日本がヨリ高付加価値型の産業構造に転換することを遅らせていることだ。

まあ、産業構造の転換はそう簡単ではないので、一朝一夕に飢餓輸出まがいの行動はやまないだろう。そして、「日本人にこれ以上何を買えというのか?」というある種の開き直りのもと、多くの日本の企業人は身を縮めながら海外の需要が復活することを待っているはずだ。

しかしその海外、より具体的に言えば今回の世界同時経済不況の引き金を引いたアメリカの需要がそう簡単に増えるのだろうか?私はそんなに早くはないと思う。別にアメリカのバブル崩壊と再生が日本とまったく同じタイムラインで進むだろうと単純に考えているわけではない。しかし以下の説明から「そう簡単に回復することもない」ということは理解いただけると思う。

問題は構造的なものだ。アメリカの消費拡大が不動産価値の拡大に依存していたことはよく知られている。しかし単純に持ち家を買って、それを売ってもうけたお金が消費に回ったわけではない [註 3]。金余りのせいでセカンド・モーゲージといわれる不動産の価値の上昇分を更にローンで貸し付けてくるシステムが出来上がっていたことだ。3000万円で買った住宅が評価額5000万円にまであがった。サブプライム以前の通常の住宅ローンでは3000万円の住宅を買おうとすれば20%の頭金を用意する必要があったから、住宅ローンの額は2400万円だ。セカンド・モーゲージを導入することで住宅評価額が5000万円になったところで、銀行は5000×80%の「後2200万円、総額4000万円まで貸せますよ」と消費者に持ちかけることができるようになったのだ。この追加の2200万円が消費に回ったのが大きい。

この金余りの原因は、輸出で稼いだお金でまずは日本が、続いて台湾や韓国や中国が、大量にアメリカ国債を買ったからだ。因果応報。もっと高いものをもっと少量アメリカに売っていたらこのようなことにはならなかったはずだ。

今どのようなことになっているかといえば、家の価値が3000万円とは言わないが4000万円に戻った状態だ。銀行は本来なら3200万円しか貸せない、しかしすでに800万円多い4000万円貸してしまっている。「800万円貸しすぎになっているから早く返して」といって回っている状態だ。消費者にしても銀行にしてもこのようにバランスシートを修復しなければならない、つまりバランスシート不況状態だから、消費者のバランスシートが修復されないと新規の消費など出てきっこない。

もっともアメリカの場合、先進国の中では国民の年齢構成が若く、人口も増えているのでいずれは住宅需要も底をうち不動産価格が上昇基調に入るだろう。そうなればバランスシートも修復される。しかし世界同時不況下ではそれはそんなに「速攻」の話ではない。

その日を待って国民を犠牲にするのはいかがなものか?

これでは内需は絶対に伸びない。日本にはまだまだ、商品にしてもサービスにしても、ほしくても買えない人がいることを忘れてはならない。

所得の不足に対する処方箋は簡単だ。所得に不安のある国民の生活を安堵させるべく福祉や教育に大判振舞いすればよいのである。

クー氏は直近のレポート(野村證券「マンデー・ミーティング・メモ」2009年4月6日版)で社会保障の充実について「社会保障制度が完備しているということは、マクロ経済学的には財政のオートマチック・スタビライザー(自動安定化)機能が(中略)機能しているということであり、ここは大きな景気の下支え効果をもつ。」と評価している。しかしその一方で「オートマチック・スタビライザー機能は景気の悪化にブレーキをかけることは出来ても景気を反転させる力は持っていない。」と、その機能が限定的であるとしている。

しかし、日本のようにそもそも将来の生活の不安を感じさせるくらい国民生活のレベルを切り詰めさせられ、ここ数年所得が落ち続け(ついでに言えば「失われた十年」の過程で虎の子の資産価値も減価し、この半年の金融不況でその資産価値が更に減価し)、GNPに占める医療費や教育支出のレベルもまた一貫して低下してきている国で、社会保障や教育に対する出費増の機能が限定的だと断定するのは早計であろう。

私は声を大にして言う。政府はハコモノではなく、社会保障や教育にいまこそ大盤ふるまいをすべきだ。

[補足] 最近元経済企画庁長官の宮崎勇氏の話を聞く機会があったが財政支出拡大の必要性や、その対象としての社会福祉出費の重要性、更には輸出主導の景気回復に対する疑問など、私の説とまったく同じお考えなので非常に勇気づけられた。その際、氏からは「労働分配率が低下していることにも注目すべきだ」とのご指摘を頂戴した。

[註 3] 持ち家を売れば新たな持ち家を買わなければならない。その新たな持ち家の値段が上がっていればもうけはそのまま消えてしまう。もっともアメリカのように労働市場が流動化し国土が広大な国の中では、不動産価格の高い地域から不動産価格の安い地域に移動してそこで新たな職につくということは日本に比べれば容易だ。そのようなケースもあったろう。

水のなるほどクイズ2010