パキスタンはfailed stateか?(1/2)2009/04/15 00:33

Failed states(直訳すると「破綻した国家」)に関するスイスのチューリッヒ大学ダニエル・テューラー国際法、欧州法、憲法、行政法教授の定義:
States in which institutions and law and order have totally or partially collapsed under the pressure and amidst the confusion of erupting violence, yet which subsist as a ghostly presence on the world map.
暴力の暴発に伴う圧力や混乱により国家の機関、法律、秩序が完全にまたは部分的に崩壊しながらも、世界地図上に影のように存続している国家のこと。

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このブログではインドのことをアレコレ取上げて行こうと考えている。インドがその主要部分を占めるインド亜大陸にはバングラデシュ、パキスタン、ネパール、ブータンの四カ国があり、インド亜大陸周辺の海上にはスリランカ、モルディブの両国が存在する。これらの国のうちで私がある程度知識のある国々についても書いて行きたいと考えている。パキスタン以外の国についてはおいおいふれてゆくとして、今回はパキスタンについて書きたい。

インドとパキスタンは1947年8月、1日違いでそれぞれ大英帝国から独立した。「インドの民主主義」
http://mumbaikar.asablo.jp/blog/2009/04/01/4219988
のところで書いたが、「インドは『多様性』を国の統一原理として成立した」と説明できるが、インドより1日早く独立したパキスタンは正式国名である「パキスタン・イスラム共和国」からも明らかなように、イスラム教がその国家成立の根拠となっている。

英領インド帝国が独立する際、イスラム教徒の多い地域を中心にパキスタンが構成された、それらの地域の頭文字をとってPakistanと言う国家が命名された。イスラム教徒の多い地域とは以下の5地域である。
P パンジャブ
A アフガニア(現在の北西部辺境州)
K カシミール
S シンド
Stan  [バルチ]スタン
(Pakstanでは発音がしにくいので"K"と"S"の間に"I"が後で加えられた)

パキスタンが成立したとき、パキスタンはインドとイランの間に横たわる西パキスタンと、 その約2400キロ東の東パキスタンの二つの部分からなっていた。東パキスタンの主たる民族はベンガル人である。宗教上の理由でベンガル州は東パキスタンとインドの西ベンガル州に分けられたが、そもそもパキスタンという国名にはベンガルの"B"が入っていないことに注目されたい。

東パキスタンとインドの西ベンガル州では同じベンガル人どうしで文字も言語も文化も共通だ。これを象徴するのがインドもバングラデシュ(後述するように東パキスタンが1971年にパキスタンから独立して成立した国家)も、それぞれの国歌の作詞者がベンガル人のヒンズー教徒でアジア初のノーベル賞受賞者であるタゴールである点だ(バングラデシュ国歌の場合タゴールの作詞作曲)。

「民族の血が宗教に勝っていたから」というか、「行政の中心であった西パキスタンが、人口においても外貨収入においても優位にあった東パキスタンの統治に失敗したから」というか。

1970年11月のサイクロン(台風)被害に対する西パキスタンにある政府の対応不良、同年12月~翌年1月にかけて行われた総選挙の結果人口の多い東パキスタンを基盤とするアワミ連合が東パキスタンの議席をすべて押さえて圧勝したにもかかわらず政権樹立を阻まれ、更に西パキスタンの民族からなる西パキスタン派遣軍が東パキスタンに進駐し、アワミ連合党首ムジブル・ラーマン氏が西パキスタンに拉致されたことが契機となり1971年3月に独立戦争が勃発、最終的にはインド軍の介入もあって東パキスタンは1971年12月にバングラデシュとして独立した。現在のパキスタンは1947年の独立時の西パキスタンがその政府の統治範囲である。

「パキスタン政府の統治範囲」と書いたが、その実パキスタンは建国の時点から中央政府の統治が及ばない地域を包含していた。Federally Administered Tribal Area(略称FATA。「連邦統治下の部族地帯」の意)、フンザ、ナガール両藩王国などの地域、更には北西部辺境州とバルチスタン州内にあるProvincially Administered Tribal Area(略称PATA。「州統治下の部族地帯」の意)である。フンザ、ナガール両藩王国は現在Federally Administered Northern Area(略称FANA。「連邦統治下の北部地域」の意)と言う自治体の一部となっている。これらの地域では伝統的な部族制社会がそのまま存続しており、中央政府の委託を受けた格好になっている部族の長がそれぞれの考えや伝統に基づいて部族を統治している。

Failed stateのひとつの指標として、国としての機能が国内の隅々まで提供できず(例えば警察の力や税金を徴収する力が国の隅々まで及んでいない)、他国との取決めを守るよう国論をまとめておく力が政府にない(例えば条約を結んでも国の一部が締結された条約とは異なる行動を勝手にとる)という点がある。上述のようにパキスタンは建国のときから国としての機能が国内の隅々まで行き渡らない状況を持っていた。部族の長が中央政府を立てていれば他国との取決めは概ね守ることができる。この部族の長の力がさまざまな理由から増し、中央政府のコントロールが効かない状況になってきたため、「パキスタンがfailed stateではないか」と言われるようになってきたのが昨今の状況だ。

直近のfailed state状況の伸張を最も象徴的にあらわしている事件を三件だけあげる:

2007年12月に党の集会に参加していた野党第一党のブット党首が集会のおわったところで爆殺された、

今年3/3にパキスタン第二の都市ラホール(人口約1000万人)で開催されるクリケット(野球の原型とも言われる英国のお球技)の国際試合に参加するスリランカの選手を乗せたバスが襲われた、

首都イスラマバードからわずか100数十キロの距離にある北西部辺境州のPATAであるスワット盆地がイスラム原理主義勢力の支配下となり、ザルダリ大統領(2007年に暗殺されたブット女史の夫)が4/13付でこの地域におけるイスラム法による統治を認める法案に署名した。スワット盆地はそもそも首都の富裕層や外国人が避暑やスキーに訪れるような場所であったが、昨年後半からイスラム原理主義勢力の侵攻でオチオチそのようなことができるような状況ではなくなっていた。今回の措置はイスラム原理主義勢力の統治を認めて治安を回復するのが目的であるが、政府による自分の国の一部における統治放棄であることにかわりはない。

パキスタンはfailed stateか?(2/2)2009/04/15 01:32

何ゆえ中央政府のコントロールが効かなくなってきたのか?

インド、パキスタン両国が1947年に独立して以来、三回にわたり交戦している。現在でも両国の国防政策上、想定の敵は第一義的には相手の国である。これはこの地域の情勢を多少知っている人にとっては常識だ。

ここがあまり認識されていない重要なポイントだが、パキスタンの想定の敵その二はアフガニスタンだ。

アフガニスタンである理由はパシトゥン人の存在だ。前述のパキスタン政府の統治の及ばないFATAとその隣の北西部辺境州の住人のほとんどはパシトゥン人だ。同じパシトゥン人は国境を越えたアフガニスタンでは最大の民族だ。カルザイ大統領はパシトゥン人だし、タリバンの主たる構成員もパシトゥン人だ。伝統的にパシトゥン人が住んでいた地域に人為的に国境線がひかれたためにこのようなことになった。パキスタンにとってみればパシトゥン人が国境を越えて団結すれば、国が割れる事態になる。そのアフガニスタンは伝統的にパシトゥン人が統治してきており、過去パシトゥン人の大同団結をとなえてみたり、その意思を行動に移してきた実績がある。第二の想定敵であるわけだ。このような事情からパキスタンにとってはアフガニスタンがたえずある程度不安定でパシトゥン人がアフガニスタンの他の民族と争っている状態であるほうが都合が良い。

パキスタン軍には1948年に設立されたDirectorate of Inter-Services Intelligence(略称ISI。軍間情報局)と言う組織がある。陸海空三軍にまたがる軍の情報機関だ。1979年12月、アフガニスタンの国内治安混乱に伴い親ソの政府に加勢する形でソ連がアフガニスタンに攻め込んだが、これに対抗してアメリカはアフガニスタンの反政府勢力に武器、弾薬、資金の援助を実施する必要が出てきた。パキスタンの想定の敵その二がアフガニスタンであることを思い出してほしい。アフガニスタンを不安定化させる大義名分が立つちょうど良いチャンスだ。ISIは率先してこの計画に加担した。

この種の関与は化学や物理の実験のようにキチンと定量化された状況の中で、予測できる結果が出てくるような類のものではない。アメリカにとっても、おそらくISIにとっても、予想外であったことは、ソ連をたたき出してからアフガニスタンが急速にイスラム原理主義者によって支配される事態となり、そのイスラム原理主義者たちが結構しっかりと国を統治したことだと思う(しっかり国を統治したことと、統治が民主的であるかどうかは別だ)。そのイスラム原理主義者がソ連との戦いに勝った余勢をかって国境の外に活動の手を伸ばし始めることはある程度予想していたにしても、その手が伸びてくるスピードや範囲は予想外だったはずだ。

おそらくここまで来た時点でISIの関係者の間では、「事態が容易にコントロールできるものではなくなった」との認識とともに、「コントロールを誤ると国家の再度の分断のリスク」という認識が出てきたと思われる。軍人官僚である彼らの考えたコントロールとは、おそらくこれまでの政策である

* 「政府の統治の及ばない地域」の中での「自治」を認め、

* アフガニスタン内ではたえず低度の混乱が起きるように仕掛け

* これに反抗する部族に対してはアメとムチで臨む

の一層の遵守であろう。しかし、前述のとおりこのようなことはそんなにうまくコントロールできるものではない。むしろ現在はイスラム原理主義者の勢力が徐々に「パキスタン政府の統治が及んでいる」地域にまで及んできている、つまり徐々にパキスタンがfailed stateに向かい始めた状況と形容できよう。

何でパキスタン国内にアフガニスタンのイスラム原理主義者と呼応するような勢力が出てきたのだろうか?

パキスタンがイスラム共和国であることは前述した。1960年代に完成した新首都の名前がイスラマバード(イスラムの町)であることは象徴的だ。しかしもっと現実的な理由がある。

話を 1973年の石油危機までさかのぼろう。パキスタンは産油国ではない。石油危機で経済が苦境に陥った政府はパキスタンに豊富に存在する「人材」を中東産油国に働きに行かせ、同じイスラム教国である中東からの投資を呼び込むことに注力した。リヤルプールというパキスタンで三番目に大きな都市の名前をサウジアラビアのファイサル国王にちなんでファイサラバードと改名するなど涙ぐましい努力もした。この結果パキスタンは中東産油国からの投資を呼び込むことに成功したが、同時に中東版の、異物に対する許容度の低いイスラム教の文化が流れ込む結果ともなった。

特にパキスタン社会に大きな影響を与えたのは、中東の政府や有力者の資金で設立された多数のイスラム教の神学校だ。これら神学校が公教育の及んでいない地域の人々に読み書きを広めると同時に、中東版のイスラム教の教義も広めていった。神学校の多くはまさに政府の統治の及ばないFATAなどに設置されていったのである。

神学校を卒業しても仕事がなければ、どこからともなくお軍資金が出て武器と軍事訓練が与えられアフガニスタンに聖戦を戦いに行く道が開けていた。聖戦から帰った戦士はISIがその必要に応じてカシミールに派遣してインドのかく乱にあたらせた。こうして、国内で偏狭なイスラム教の教育を受けた若者を、中東の政府や個人やパキスタンの政府機関が手を貸す形で、武器を与え聖戦に赴く伝統が出来上がった。もうひとつ注目すべきは政府の統治の及ばないFATAやPATA地域における伝統的なgun culture(銃保有文化)の存在である。’80年代以降この二つが化合した。パキスタンは武装した不平分子が自己増殖する装置を手に入れてしまったのである。

パキスタンのfailed state化を止めるのは容易ではない。

まずは経済成長を通じて国民を貧困から解放することからはじめる必要がある。同時に教育を通じて今貧しい人々の間で流通している偏狭なイスラム教の教義の束縛から国民を解放する必要がある。しかし、綿や繊維製品や米以外これと言った輸出商品もなく、必ずしも企業活動のための環境が整っているとは言いがたい国がどうやって経済成長を成し遂げるのだろう?また教育を広げようとしても、イスラム教式の教育を継続することで利益を受ける厚い層がある社会状況の中でどうやってそれから離れた教育を展開できるのだろうか?

ここはパキスタンに広範な国民に支持された開明的な指導者が出現することを望みたいが、そこはfailed state、開明的な指導者には暗殺されるリスクがつきまとう。

国際社会は当面パキスタンのfailed state化が進まないよう祈るしかないのだろうか?

スラムドッグ$ミリオネア2009/04/21 22:48

ようやく本邦初公開となった「スラムドッグ$ミリオネア」をみた。「インド」という懐を借りて「トレーン・スポッティング」のダニー・ボイル監督が作り上げた、手に汗を握る純愛ラブロマンス。史実+「実」の部分と「虚」の部分を巧みにまぜあわせ、圧倒的な力で最後まで引っ張って行った、さすが本年のオスカー賞8部門優勝の必見映画だ。

この映画の力はどこから来たのだろう?主人公が少年少女であった頃の部分を演じるのは現実のムンバイのスラムの住人の子供たちだし、エキストラの多くはスラムの住人だ。ボイル監督によれば「彼らの迫真の演技力なくしてはストーリーが映画にならなかった」という。映画の中で見られる人口1400万人の超過密都市ムンバイの人口圧力。エンディングタイトルと重なるボリウッド映画式に主人公を囲む集団舞踏場面の迫力。これらの背景に「虚・実」が巧みに織り込まれたストーリー展開からこの映画の迫力が生まれたのだと思う。

間違ってはいけないが「スラムドッグ$ミリオネア」はボリウッド映画ではない。それではボリウッド映画とはどういう映画なのだろう。

ボリウッド映画とはインドの経済の中心ボンベイ(Bombay現ムンバイ)で製作されるヒンディー語の映画の総称だ。ほとんどが派手なアクションを伴った勧善懲悪型のラブロマンスで、ストーリーの展開と共に華麗な歌と踊りが披露される。すべての映画が「虚・実」の巧みな混合物であるとすれば、ボリウッド映画の製作手法は観衆の現実逃避欲求に100%応えるよう製作された「虚」の部分が圧倒的に勝ったものだ。

「スラムドッグ$ミリオネア」はインドでは1月に公開されたが、当初は不評で興行成績が伸びなかった。理由は現実逃避を求めるインドの観客とこの映画の描く「実」の多い世界との落差のためであったと思われる。もっとも2月のオスカー賞受賞を契機として興行収入は伸びており直近の週では1.5億ルピー(約3億円)とインド国内第二位の興行成績をおさめている。

ボリウッドBollywoodという言葉はボンベイのBoとハリウッド(Hollywood)llywoodのを掛け合わせた造語だ。このスタイルの映画の成功に伴いインドのほかの地方や、隣国のパキスタン、スリランカ、バングラデッシュといった国々でも、同じスタイルの映画が製作されるようになった。しかし一番お金が集まるのは今でも本家本元ムンバイのボリウッド映画。いまやボリウッド映画は東南アジアや中近東にも輸出され、それらの地域の地元放送局が放映する映画のレパートリーに確実に加わっている。ストーリーが単純明快なこと、華麗な歌や踊りがあること、キッス場面すらご法度という保守的な作風あたりがボリウッド映画の輸出の成功の背景にある。

話を「スラムドッグ$ミリオネア」に戻す。

この映画で「虚・実」はどの部分なのだろう?多少インドを知るものとしてその解説を試みることで、インドの一面に少し触れてみよう。

主人公のジャマル、サリム、ラティカの親を奪ったヒンズー教徒によるイスラム教徒虐殺と、このときムンバイ警察がイスラム教徒が助けを求めてもまったく応じなかった部分は1993年に起きたムンバイのイスラム教徒虐殺で実際に起きたエピソードが題材になっている。インドではヒンズー教徒とイスラム教徒との間の混乱は数年ごとに起こる。たまたま1984年だったかの混乱のとき私はボンベイ(当時はまだボンベイと呼ばれていた)に出張していた。普段は忙しく多数の人が動きまわっているウィークデーのボンベイ南部のビジネス街がヒッソリしていた数日後、地元の警察の暴徒鎮圧担当ではないソレナリのポジションにある警察官僚とその家族とホテルで会食する機会があった。例えてみれば関東大震災後の朝鮮人虐殺が起きた数日後に警視庁の高官とその家族と帝国ホテルで会食したような状況だ。「今回の暴動は明らかにヒンズー教徒側が起こしたもの」と断言する高官氏(彼はヒンズー教徒)の”However the fact is that the attacked are always ready(しかし攻め込まれる側はいつも攻め込まれた場合に備えているのも事実だ)”と言う言葉が妙に耳に残っている。

暴動鎮圧には結局軍が動員され、暴徒に対し実弾射撃を行い暴動を鎮圧した。「こういう時アッサリ実弾射撃をやるからなぁ」とは催涙弾や放水でデモ隊を鎮圧する国から派遣された当時のボンベイ駐在員のコメントである。余談になるが、インドと中国の違いはこのようなニュースがきちんと報道されることであろう。

映画は警察の取調室で始まる。主人公ジャマルが1000万ルピー(約2000万円)まで懸賞金を稼ぎとったところで「オレのショーをあんな奴にメチャメチャにされてたまるか」と考える番組の司会者が警察に「ジャマルが不正を働いているらしい」と通報する。有力者の通報を受けた警察が即刻動きジャマルは家に帰るため放送局から出てきたところを逮捕され警察で一日尋問される。一日で警察が許してくれる部分は「虚」の部分だが、有力者と警察が「できて」いる部分は真実である。

その尋問の際ムンバイ警察がまるで人権無視の尋問手段をとる。容疑者を殴ったり棒でたたいたりすることで証言を取るのはインドの警察の常套手段だ。もっともつい先週の4/16にオバマ政権が開示した米国司法省のマル秘文書によれば、ひっぱたいたり顔を水没させたりするのはブッシュ時代の米国司法省公認の尋問手段だそうなので、インドの警察が人権無視だとばかり言ってはいられない。この種の話が報道されると、「またやった」とある種の諦めをもって事実を報道する側と、「こういうことはインドだけではない、先進国でも起きることだ」と開き直る側がせめぎあうのがインドの言論界の常だ。

物乞いをやりやすくするため子供を失明させる「孤児院」の主、その実乞食の胴元。こういう手合いがいるのもこれまた事実である。インドには物乞いの際の小道具として赤ん坊を貸し出す商売があったりするのだ。

映画を見終わった観客の中の若い女性が「怖かった」といっていた。これは「人間から人間性を奪うほどの貧困」を知らずに生きてこれた幸せな世間知らずの人間の率直な印象だと思う。ミュージカル「マイフェアレディー」に登場する主人公イライザの父親が”Have you no morals, man?(お前には道徳というものがないのか?)”と質されて、”No, I can't afford 'em, Governor(旦那、そんなもの持つ余裕はありませんや)”と応じているが、貧困こそ「人間から人間性を奪う」のだと言うことを覚えておこう。

話を元に戻す。主人公達がどうやら幼少時代を生き延びて片やコールセンターのお茶くみ、片やヤクザの親分の用心棒、もう片やヤクザの情婦になっていると言う設定もまた「ありうべし」と思わされる部分だ。

しかしコールセンターのお茶くみの青年が、コールセンターで働く人より立派な体つきであるのには違和感があった。スラムたたき上げの場合、子供のころの栄養が悪いため、あの主人公のようにスラッと背が高くはならない。

これだけの「実」の部分と対置される「虚」の部分。ストーリー全体の「ありえなさ」や主人公たちが10代になってからの英語の堪能度の「ありえなさ」は誰もが感じる部分だろう。

映画の後半から登場人物たちの話し言葉がヒンディー語から英語に代わるが、これは「英米圏(特にアメリカ)の観客に全編外国語の映画をぶつけるのは興行上問題」と言う配慮から来ている。ボイル監督は撮影中ヒンディー語が入る程度を最後まで配給者側に開示しなかったそうだ。

主人公が兄と共にボンベイを逃げ出し、汽車に乗ってインドのあちこちを旅行し、各地でカッパライやガイドをやって暮らしを立てる部分。インドには各地に貧しい人々がおり、皆カツカツの暮らしをしており、言葉も違う(∵少年たちの話すヒンディー語が通じない地方だってある)見ず知らずの少年たちがそう簡単に地方で暮らせるとは思えない。地方で暮らせないから皆ボンベイに出てくるのである。ミーラ・ナイール監督の秀作映画「サラーム・ボンベイ」(1988年。日本公開は1990年)の世界である。

最後に映画のストーリーの大きな装置となっているクイズ番組について書こう。映画に登場するクイズ番組はKaun Banega Crorepati (略称KBC。「求む1000万ルピー長者になりたい人」の意)と言うヒンディー語の高視聴率番組だ。正と続があり、正の懸賞金は1000万ルピー(約2000万円)、続の懸賞金は倍増して2000万ルピーで、続は2007年4月まで放映されていた。映画でホスト役を演じたアニル・カプールはゲストとしてこの番組に出演し賞金500万ルピーを獲得している。初の1000万ルピーの受賞者がでたのは2000年のことで、受賞者はハルシュダルヴァン・ナワッテという汚職追求担当の警察官の息子だ。受賞時に「ナワッテが受賞できたのは、汚職の手口を知り尽くしている父親がコッソリ手を回したのではないか」と言ううわさがたったが、映画の主人公のような厳しい尋問にはさらされなかったようだ。現在35歳のナワッテ氏は貧困撲滅を目的に1998年に設立されたNaandi Foundation(ナンディ財団)と言うNGOでスラムの子供たちに教育を普及させる活動に従事している。

スリランカのこれから2009/04/22 20:54

スリランカ政府の発表によれば、連日の政府軍の猛攻の結果タミル人軍事組織のLTTEは北部の約xx平方キロの地域においつめられており、内戦は終盤に近づいているとのことだ。国際赤十字関係者はLTTE支配地域内にとり残されている約xx万人の一般住民の安全確保をスリランカ政府に呼びかけているが、スリランカ政府はLTTEが一般住民を「人間の盾」として利用しているため一般住民の解放は困難を極めていると発表している。スリランカ政府が外国の報道関係者の現地立ち入りを禁止しているため現地の状況は詳細は確認できない。

このところスリランカに関する報道と言えばこの手の内容のものだ。報道内容の違いと言えば日ごとに小さくなるxxの部分の数字だ。

数年前、ある会合で隣り合わせとなった当時のネパール大使との会話

私: 南アジアには「どうしてこの国でこういうことがおこるのだ?」と言う国があります

初対面の一国の大使相手との社交上の会話なので「どうしてあなたの国のようなところで内乱が継続しているのか疑問です」ともきけず、上記のような発言となったが、大使の回答は明快であった。

大使: そう、スリランカとネパールですよね

当時ネパールでは1996年から活動を開始した「毛派」(英文名はCommunist Party of Nepal (Maoist)、訳せば「毛派ネパール共産党」。「毛」は毛沢東の毛の意)が国土のほとんどを掌握し、かろうじて「点と線」を抑えている政府との間で激しい解放闘争を継続していた。

大使との会話からほどない2006年11月、毛派は他の政党との協調路線を打ち出し武装闘争から政治闘争に戦術を転換、現在はネパールで政権を担っている。ネパールと言うと我々日本人はヒマラヤ登山を通じた「高原の桃源郷」的なイメージが一般的だが、その実農村部の経済的な疲弊は著しく、農村部の少女が人買いの手を経てインドの娼窟の劣悪な環境下で働かされていたりする。毛派はこのような疲弊し貧困にとらわれた農村部を背景として成長した。

大使があげたもう一方の国スリランカはインド亜大陸の南東に位置する面積6.4万平方キロ(≒四国+九州)の島国だ。人口は2100万人なので人口密度は平方キロ当り330人と稠密だ(日本は340人)。国土も山あり谷ありなので、平野部の人口密度は結構高い。東南の平野部の陸上を移動していると「水田やココ椰子畑と赤い瓦屋根の家が切れ目なく続く」という風景だ。現地の人と目が合うと皆一様ににっこり笑みを浮かべる。国民の約7割が小乗仏教を信仰する仏教国なので、そこここに釈尊の像が建立されている。「こんな平和そうな国でなんで?」と思うが、その一見平和そうな国では1983年以来内戦が続いている。否、スリランカではそれ以前も、その実1948年の独立以来、間欠的に何らかの社会的な混乱がおきている。

1983年から継続している内戦はスリランカの多数派民族であるシンハラ人(人口の7割強で紀元前6世紀くらいにインド亜大陸から移ってきたとみられる民族)とタミル人の軍事組織LTTEとの間の戦いだ。

タミル人は南インド、スリランカ、マレーシア、シンガポールに分布する総勢6000万人くらいの民族だ。マレーシア、シンガポールに移住してきたのは19世紀からだが、スリランカには紀元前2世紀頃から棲みついている。スリランカ全体ではタミル人は人口の約 15%とみられるが(「みられる」と言う表現をつかうのはLTTE支配地域の人口が計算対象外となっているため)、その1/3程度は19世紀にインドから連れてこられた労働者の子孫だ。残り2/3程度のタミル人はスリランカの北部を中心に住んでいる。

スリランカの地図を見ると国土の南2/3くらいは山岳が多く、北1/3くらいに平野が広がっている。北部の相当部分は乾燥地帯であるにもかかわらず、平坦な地形をいかして伝統的に灌漑農業が盛んな地域でスリランカの蔬菜の生産の中心地だった(過去形で書いているのはLTTEとスリランカ政府との間の戦闘で北部の農業は壊滅的な打撃を受けたため)。このような環境下で育ったタミル人の多くは勤勉かつ高学歴志向で、伝統的に技術者や士業(医師、弁護士、会計士といった公的な資格を要する業務)に従事するものが多かった。

1948年のスリランカ独立以来、シンハラ人が政治の主導権を握り、シンハラ語の使用を推し進め、それに加え数次のタミル人を標的とした虐殺が自然発生的におきた結果、タミル人の不満が高まり、それが結集した結果がLTTEの武装闘争である、

と言うのがまあ一般的な説明だ。タミル人を東南アジアにおける華僑と似た境遇にあるとした理解である。

この説明は概ね正しいが、見落としているものがある。この部分を見落とすとスリランカの国内で起きている問題の解決の糸口を見失うと思う。

歴史上インドという統一国家が存在した時期がほとんどなかったのと同様、スリランカもまたヨーロッパ諸国の植民地となるまで統一国家としての経験はほとんどない。北部はタミル人の王国あるいは南インドの王朝の支配下にあり、東部はタミル人を主体とする諸侯が統治し(ただし一部の藩王はシンハラ人の王に対し朝貢していた)、それ以外の地域をシンハラ人の王国が支配するという状況が継続していたからである。これは史実だが、主観的な史観の世界ではこうならない。この点については後に詳述する。

スリランカでは独立後数次のシンハラ人主体の反政府武装闘争が起きている。私が最初にスリランカへ行った1971年は、ちょうどシンハラ人による反政府武装闘争がようやく鎮圧されたところで、町にはまだ夜間外出禁止令が敷かれていた。地方へ行くと、警察署が爆破されたあとがあったり、反乱勢力によって爆破された軍の車両が道端にとめてあったりで、遺跡で仏像の穏やかな姿を見ながら「何で平和主義の仏教の国でこういうことがおきるのだろう」という素朴な疑問を持ったものだ。

それ以前の1959年に首相が仏僧(!)に銃撃されて命を落としているし、その後も例えば1987-89年に1971年の反政府闘争を行った勢力による再度の反政府闘争によりシンハラ人の間で数万人の死者がでているし、ここ数年は政府に批判的な言動をしたと目される人物の暗殺が頻発している。

このおよそ仏教のイメージと異なる一連の動きがどうしておこるのか、シンハラ人の大半が篤く信仰するスリランカの仏教にその解を求めてみよう。

スリランカの仏教は伝承ではインドを統一し仏教に帰依したアショカ王の息子で仏僧のマヒンダが紀元前2世紀にもたらしたとされる。小乗仏教はスリランカで経典の整備が行われた後、東南アジアに伝播して行ったので、仏教全体における自分たちの位置につきスリランカの仏教界は大変な誇りを持っている。

この間の経緯は国の成り立ちを書いたディパヴァムサ(パーリ語で島の記録)とマハヴァムサ(同、大記録)という書物に記載されている。これらの書物は日本の記紀のような存在だ。マハヴァムサのカバーするのはBC6世紀からAD4世紀までのスリランカの歴史だが、それ以降1815年の英国によるスリランカ占領までをチュラヴァムサという書物がカバーしている。シンハラ人の間では「チュラヴァムサはマハヴァムサの続編」と言う理解のため、日本人が「万世一系の天皇家」と言う考えを持っているように、シンハラ人は「スリランカは紀元前より正史が記録され続けた国」としての誇りを持っている。問題はそのマハヴァムサの記述内容だ。

マハヴァムサはシンハラ人の目から見た正史であるため、スリランカ全島は一部の時期を除きシンハラ人が統治してきたという認識に基づいて書かれている。前述のとおりこれは史実とは異なる。

チュラヴァムサを含むマハヴァムサの記述は概ね仏僧がこれに当たっており、スリランカの仏教では両方の書物は準仏典扱いであるため、スリランカの仏教はこのシンハラ民族主義の典拠の守護者としてシンハラ民族主義と密につながっている。タミル人に自治を認めることにスリランカの仏教界が強固に反対するのにはこの背景がある。

また、マハヴァムサの史観からいうと、北部を支配するタミル人のような異民族との戦いは正当ななものということになる。つまり武力による異物の排除はスリランカの仏教に含まれる要素だということになる。独立後のスリランカにおけるタミル人に対する処遇や、時々発生するシンハラ人同士の暗殺劇はまさにこの異物を排除するスリランカ仏教の一面の表れだと思う。

ついでに書けば、スリランカのタミル人の間ではヨーロッパ諸国に占領されるまで自分たちがスリランカの北部を中心とする地域を支配してきたという思いがある。

ここまで書いてくると問題の深刻さがわかっていただけると思う。シンハラ人は自分たちがスリランカを概ね統治してきたと信じているし、タミル人は自分たちがスリランカの一部を概ね統治してきたと信じている。シンハラ人の場合はこれに宗教がからんでいる。

このままで戦況が推移すれば、比較的近い将来LTTEの占領地は陥落し、LTTEの残党による散発的な戦いが起きるにせよ、スリランカ政府による全土平定ということになろう。しかしシンハラ人側が本来の仏教の姿である慈悲の心をもってタミル人の自治要求に柔軟に応えなければ、またタミル人側にも際限ない自治要求をしないだけの自制がなければ、再びスリランカの治安が不安定化するだろう。

しかし「タミル人の自治要求に応える」という視点で見ると、敬虔なスリランカの仏教徒であるマヒンダ・ラジャパクサ大統領がこれを推進する適任者かどうかには疑問符がつく。スリランカ政府の対応次第ではLTTEを鎮圧してもスリランカの将来は決して安泰ではないのである。

「スラムドッグ$ミリオネア」 トリビア -- インドの数の数え方2009/04/25 11:55

自分が書いてきたことを復習する意味で以前何を書いたのか見ていたら2/28にアップした”Slumdog Millionaire”
http://mumbaikar.asablo.jp/blog/cat/subcontinent/?offset=5
に2/25付の日経新聞の記事から以下のような文章を引用している。

月給900ルピーの貧しい青年がテレビのクイズショーに出て十億ルピーもの賞金をかちとった。貧民街で育ち何の教育もない彼が難問を解けたのには驚くべき秘密が

ハテ、映画の主人公のジャマルは2000万ルピー(約4000万円)を獲得したんじゃなかったっけ?なんで2000万が10億になったんだろう?最初の「2」と「1」は単純なミスとしても、十億と千万では大分違う。何でこうなったか考えてみた。

4/21にアップした「スラムドック$ミリオネア」
http://mumbaikar.asablo.jp/blog/2009/04/21/4258448
で、この映画の舞台回しに使われているのはKaun Banega Crorepati (ヒンディー語で「求む1000万ルピー長者になりたい人」の意)と言う実在したヒンディー語の高視聴率番組だと書いた。うっかりしてこのとき、この映画のインドでの題名がSlumdog Crorepati(スラムドッグ千万長者)であることを書き忘れた。

インドで新聞を読んでいると、LakhラックとかCroreクロールという単位が出てくる。

インドでコンピューターの画面で数字を見ていると奇妙な具合に「,」が打ってあることに気がつく。1,00,000とか1,00,00,000と言う具合だ。これなんでだろう?1,00,000つまり十万は1ラック、1,00,00,000つまり千万は1クロールと言う数の単位だからだ。

そう、インドでは億万長者のことをCrorepatiクロールパティ、1000万長者というのだ。

インド人は日常生活でこのラックやクロールという単位を常用する。「4/24に選挙したのはxxクロール人」と言う具合だ。日本でも億や兆を使うが、コンピューターまで4桁ごとにカンマを打つような表示はしていない。ちなみにパキスタン人やバングラデシュ人もラックやクロールを使うが、面白いことにスリランカ人はラックやクロールが何であるかは理解しているがこの単位は使わない。

これで日経の記者のチョンボがどうして発生したのかわかる。彼がなじんでいるカンマのつけ方で十億を記載すれば1,000,000,000。ウッカリしてカンマの数から数字を判断したので0が二つ違う値であることを見落としたのだ。この記者さん、数字を見るときインドの数の単位を知らなかったのか老眼鏡を忘れてたようだ。

水のなるほどクイズ2010