党と行政府の関係2010/01/09 06:22

まだソ連と言う国が存在し、世界の東西両横綱のような感じでアメリカと張り合っていた私の高校生時代。ソ連は自国をアッピールするためアレコレ手を尽くしており、その一環として在日のソ連大使館が「今日のソ連邦」と言うカラーグラビアの月刊誌を発行しており、中波で放送するモスクワ放送の日本語ラジオ放送の電波をニッポン放送のすぐそばに飛ばしていた。Moscow Newsという週刊の英字紙が発行されており、これが高校生の小遣いでも十分購読できるくらいの料金で発行されていた。

確かソ連が何回目かの有人衛星を打ち上げたときだ。Moscow Newsに当時のソ連の指導部が一同に会して宇宙飛行士を祝福している写真がでていた。「宇宙飛行士と連絡を取る」といっても机の上に一台の電話機が置かれ、それを介して連絡を取るスタイルなので、話すことができるのは一人だけだ。私が一番興味を持ったのはその電話機の受話器を握っている人だった。彼は横に首相のコスイギンを従えた共産党総書記のブレジネフだった。この写真ほど「ソ連では共産党のトップのほうが政府の首相や国家元首よりえらい」と言うことを高校生にもわかる形で実感させたものはない。

旧ソ連のような党主導の統治形態が残っているのは中国とベトナムくらいだと思っていたが(「選択と集中」
http://mumbaikar.asablo.jp/blog/2009/08/09/4488304
でとりあげた北朝鮮は金正日個人による独裁体制)、民主党政権が誕生してからの情勢を見ていると、ある程度予想されていたこととはいえ、民主党政権はこのような統治形態に収斂しつつあるようだ。自民党政権下であれば「首相は党の総裁を兼ねていて幹事長は総裁の補佐役」と言う位置づけだったが(イギリスの労働党もこの形態)、民主党では「党の幹事長である小沢一郎が党を抑え、これが行政府の長である鳩山由紀夫首相にあれこれ『要請』を出している」と言う形がはっきりしてきている。

私は民主主義国家の場合、政権与党の長が行政の長に指示するような統治が別に悪いことだとは考えていない。中国共産党のような翼賛選挙で選ばれた与党とは異なり、民主主義国家の政権与党は選挙によって国民に選ばれており、「政権与党の声は国民のマジョリティーの声」だと考えてもよいからだ。国民は選んだ党が思い通りの政治を行わなければ、次の選挙で別な党に投票すれば良いだけのことだ。

もっとも日本の場合選挙区の区割りが人口の分布を反映していないという問題があるが(いわゆる一票の格差問題)、この問題にきちんと対処すればまったく問題なく「政権与党の声は国民のマジョリティーの声」と主張できることになる。

それにしても自民党政権下の日本の最高裁は「衆議院の場合で約3倍以上、参議院の場合では約6倍以上の差が生じた場合には、違憲ないしは違憲状態」(Wikipedia日本版「一票の格差」)などというフザケタ判決を出し続け、「1992年の参議院選挙を最後に、最高裁判所において違憲ないしは違憲状態との判決は下されてない」(同)と違憲状態の実質追認に加担してきたことをみると、日本の司法が立法や行政から独立しているとは到底認めがたい。

脱線したが、その小沢に対するインタービューが1月4日の夜、テレビ東京の「カンブリア宮殿」で放映されたので久々ぶりに日本のテレビをみた。「カンブリア宮殿」でキャスターの村上龍が小沢と対面するのは二回目のようだが、番組を見て受けた印象は

質問の焦点が絞られていないので小沢との一問一答で終始し、村上の質問が手錬の小沢に軽くいなされていた

というところだ。党主導の統治についても、せっかく番組の冒頭のほうで、民主党政権下で陳情が基本的には党に一本化され、それが政府に持ち込まれることになった点を取り上げたにもかかわらず、小沢の「あれはあくまでも党としての要請であって、それをとりあげるかどうかを決めるのは政府」との説明だけで村上はあっさり引き下がっていた。小沢の「党としての単なる要請」と言う言葉を額面どおり受け取る人はいないだろう。

番組で小沢は「政治の透明化」をめざしていると主張していた。村上はそれにひっかけて「党による陳情の取捨選択の基準が必ずしも明快と言える状況ではないので、政府に提出されてきた党の要請は必ずしも透明な選択プロセスを経て提出されているわけではない」ことをもっと突っ込めたとおもう。

もっとも今回のプロセスは選挙で第一党に選ばれた公党が一元的にどの陳情を政府に伝えるのか選択したのだから、自民党政権下のように選挙で選ばれているわけでもない官僚にも陳情が行き、そこでふるいにかかる場合よりは民意を反映する度合いが高いプロセスだと言う説明は成り立つ。となれば、次回は更に選択のプロセスや選択基準の明確化をするべきだと提案したり、そのプロセスや基準が具体的にどのようなものになるべきなのかの話まで持ち込めたのではなかったのか?

どうも日本のテレビ番組のインタービューを見ていると欲求不満になる。「やはりテレビなんて見ないでおこう」という気持ちを再確認した。

インタービューのことを書いているうちにまたまた脱線したが、民主党政権が誕生してからの一連の出来事を見ていると、党と政府の棲み分けを定義するため関係者があれこれエネルギーを空費しているという印象を受ける。このあたり鳩山首相が自分の力の限界を正確に認識していないため「着地点を求めて関係者がもみ合っている」という理解ができるが、鳩山由紀夫にしても小沢一郎にしてもそろそろお互いの棲み分けの着地点を見つけてもらわないと行政が混乱して困る。国民は民主党政権が打ち出す新機軸に期待して待っているのだから。

Icesave2010/01/14 21:34

北大西洋の北極圏近くにアイスランドと言う人口33万(参考:北海道旭川市の人口が35万、沖縄県那覇市の人口が31万)、面積10万平方キロ(参考:本州の半分弱)の小国がある。国土は9世紀からバイキングの末裔が住む火山島だ。このアイスランドで発生した金融危機が2008年以来ヨーロッパでちょっと話題になっているが、先週のイギリスのマスコミを結構にぎわす事態が発生した(オランダでもマスコミがにぎわったはずだが、オランダ語ができないのでこっちはフォローできていない)。

アイスランドは小国であるだけに、今後の展開が今般の世界金融危機の実験場としての意味があるとされ、同国の状況については規模が小さいとはいえ目が離せない。

ことの発端はそれまでいわゆる北欧型の高福祉高負担の社会民主主義政策を取っていたアイスランドが、2001年に大きく政策転換を行い国営企業の民営化や税率の切り下げを行ったことだ。民営化されたアイスランドの銀行(小さな国のことゆえKaupthing, Landsbanki, Glitnirの三行しかない)は積極的にヨーロッパに進出していった。高金利で預金者を集めアイスランドの人口をはるかに凌駕する40万強の預金者を集めることに成功した。アイスランドの本店が直接預金を集めたケースと、現地法人が設立されそこが預金を集めたケースと両方ある。この記事の表題であるIcesaveはLandsbankiの本店が海外の預金者を集める際に使った高金利預金商品の商品名だ。Kaupthingの高金利預金の商品名はKaupthing Edgeといった。

アイスランドの銀行はこうやって集めた資金などを元手に、積極果敢にヨーロッパの金融界で買収を繰り広げた。もっとも積極的だったのはKaupthingで、イギリスの名門中小銀行のSinger & Friedlanderやベネルックスの有名投信会社Robecoを買収したりして名をはせた。他の二行も負けてはいない。Landsbankiはイギリスの銀行やフランスの証券会社を買収しアイスランドからの移民の多いカナダに駐在員事務所を二ヶ所構えるまでになったし、個人資産のふくらんだ会長のGuomundssonはイギリスのフットボールクラブWest Ham Unitedを買収したりした。どちらかと言えば北欧中心に展開する姿勢を示していたGlitnirもカナダ東岸ののハリファックスと上海に駐在員事務所を構えるまでになっていた(Wikipedia英文版”Icesave”)。

このような膨張を支えたのは高金利でかき集めた外貨預金のみならずユーロ市場などでかき集めた資金であった。北欧の中小銀行の一部には高金利で国外から預金をかき集める「伝統」があり、アイスランドの銀行もその例にならったのが出発点だったのかもしれない。預金をかき集め、当初はそれを健全な国内の事業や国外の資本市場に貸し出し、利益を蓄積し、財務格付を上げ、国外の資本市場から資金を調達し、それを原資に買収を繰り広げ、と言うようなサイクルが機能したのだ。最終的には3行の海外向けの融資総額がアイスランドのGDPの5倍強にまでふくらんでいたとされる。お金が潤沢に回るようになると国内の不動産価格も上昇を始めた。

人口も少なく、観光、魚介類、豊富な地熱発電由来の電力を使ったアルミやフェロシリコン精錬以外取り立てて産業のないアイスランド市場に留まっていても大きく拡大できないのは事実だ。日本の地銀のように自分の地元にちんまり留まらず、来るべきアイスランドのEU加盟をにらんで果敢にヨーロッパに打って出たのはバイキングの末裔の血が騒いだからなのだろうか。しかしこのような大膨張は小さな国の小さな政府の監督能力を超えていたこともまた事実だ。

資金が高利回りで運用できればよいが、サブプライム問題が発生し、世界の金融に滞りが生じると、三行は相次いで資金調達に支障をきたし、借り入れていた資金の返済が滞り破綻した。

破綻してからの預金の扱いの原則について確認しておこう。

各行の現地法人が集めていた預金についてはその法人のおかれている国の預金保護制度に基づき預金が確保される。預金者が各行の支店や各行に直接(つまりアイスランドに送金して)預金していた場合は、アイスランドの法律の取決めに従う。アイスランドの各行が募集した高金利預金はおおむね後者だ。

預金者にとって幸いだったことはアイスランドがAgreement on the European Economic Area (ヨーロッパ経済地域条約)加盟国なので、国内の預金保護の条件をそのまま他のヨーロッパの預金者に対しても適用するのが原則だったことと、それに伴い加盟国の預金者に対しては預金を預かる銀行の存在する国の預金保護制度の適用を認めるpassport systemといわれるものがあったことだ。

アイスランド国内の現地通貨のアイスランド・クローナ建ての預金はアイスランド政府が全額保護した。従い国外でかき集めた外貨建ての預金のほうも条約の原則で言えばアイスランド政府が全額保護する必要がある。しかしアイスランド国の預金保護基金は政府が直接関与せず保険金も低額だったので、GDPの5倍にも達する預金を保護する能力がないことが判明した。

ヨーロッパ経済地域条約に関する施行令には別に、加盟国は2万ユーロまで預金保護を行うことを定めている。ただこれはあくまでも個人預金者に対してであり、法人に対しての預金保護は存在しない。ところがイギリスやオランダの地方自治体がアイスランドの銀行に相当の預金をしていることが判明した。Wikipedia英文版によればイギリスの地方自治体だけで総額9.2億ポンド(約1200億円)をアイスランドの銀行に預けていたと言うことだ。

ことが国内の政治問題化することを恐れたイギリス、オランダはアイスランド国に代わって自国の預金者の解約請求に応じ、立替た金をアイスランドが14年にわたって返済することで合意し、これをアイスランドの国会も承認し話がまとまりつつあった。しかしアイスランド国民の間で、この決着に対する不満が高じ、大統領に対して国民の約1/4が決着の見直しを要求する署名を提出するに及んで、アイスランドの大統領は1月5日に国会決議を立法化するのに必要な署名を拒否し事案を国民投票にかけることを宣言した。先週来イギリスの新聞がアイスランド関係の記事でにぎわっているのはこのためだ。アイスランドの国民の多くはこの合意に反対だとされており、今後の展開は予断を許さない。

ここまでの記述を見て読者は「人口が旭川くらいの小国がよくまあイギリスのようなヨーロッパの大国相手にがんばるね」と言う気がしないだろうか?

実はアイスランドにはヨーロッパの大国相手に一歩も退かずに自国の立場を通してきた伝統がある。アイスランドは1950年代と1970年代に北太平洋の漁業資源をめぐって、現実にアイスランドの沿岸警備艇とイギリス海軍の巡洋艦が、アイスランドが主張する領海内で数回衝突する事態が発生した「タラ戦争」と言われる争いをイギリス相手に展開しており、この結果アイスランドの領海や排他的経済水域を拡大している。現在世界で一般化している排他的経済水域200海里(約370キロ)は1970年代のタラ戦争の結果アイスランドが勝ち取ったものだ。

1970年代後半のタラ戦争のときアイスランドとの交渉に当っていたRoy Hattersley(後のハタースレー卿)が1月8日にイギリスの新聞The Timesに寄稿した記事によれば、

<Icelanders are, by nature, intrinsically unreasonable. It is part of their charm and the secret of their survival.アイスランド人は生来根本的に不合理である。これがかれらの魅力であり、彼らが生きながらえてこれた秘密だ>

だそうだ。更にハタースレーは

<[But] it was not their habit, when their national interests were threatened, to concern themselves with legal niceties彼らは国の利益がからむと、法律上の些細な事項などにこだわらなくなる癖があった)>

ともいっている。交渉上手のイギリスのネゴシエーターを辟易させるような強面のアイスランドとの交渉とはどんなものだったのだろうか?タラ戦争ではアイスランドはNATO脱退を持ち出し(当時はまだ東西両陣営の対立があり、アイスランドは北大西洋防衛上の重要拠点だった)、イギリスの巡洋艦に対抗するためソ連から軍艦を購入することまで検討し、まさに背水の陣で交渉に臨んだ。このような迫力をもって交渉して初めて小国アイスランドが大国イギリスを交渉で打ち負かし、排他的経済水域200海里をかちとったのだ。

好敵手アイスランドをハタースレーは

<I feel (perhaps perverse) admiration for their concentrated bloody-mindedness.私は彼らの濃縮された頑固さに(多分自虐的な)賛美の念を持っている>

と評価している。ハタースレーの分析はアイスランド人をヴァイキングの末裔と認識するところから出発しているが、ここにもうひとつの補助線をひいておこう。

それはアイスランドは国連が発表する人間開発指数(HDI)をみると極めて高位に位置づけられる国であると言うことだ。

HDIの詳細についてはWikipediaの「人間開発指数」が最も詳しいので説明はそちらに譲るが、パキスタンの経済学者Mahbub ul Haq マハブブゥル・ハクが考案した、平均寿命、教育、購買力平価で調整した一人当りGDPの三数値を一本の指標にまとめたもので、毎年UNDP(国連開発計画)が発表している指標だ。2007年の数値を用いて計算された2009年版ではアイスランドは世界第3位に位置している。それ以前の年でも絶えず上位にランクしている。ちなみに日本のHDIが一人あたりGDPの低下を反映してズルズル落ちてきているのとは対照的だ。アイスランドのGDPが減少した2008年を反映する2010年版でこれがどのようになるのか興味があるところだが、指標の平均寿命や教育の部分がそれほど変化するはずはないので「順位暴落」という事態にはならないだろう。

アイスランドの経済については金融が脚光をあびたが、HDIに組み入れられている教育レベルの高さを反映してソフトウェアやバイオ産業なども育ってきていることに注目する必要がある。今回の金融危機に伴い優秀なアイスランド人がヨーロッパ大陸に移住してしまうのではないかと懸念されているが、これはつまりはヨーロッパ大陸で通用するような優秀な人材が育っているという意味でもある。

この優秀な人材をかかえるバイキングの末裔の国が当面する局面をどう切り抜けてゆくのか?タラ戦争のときのように、切り札をちらつかせながら強面で交渉を継続させるのだろうか?その際の切り札は何になるのだろうか?繰り返しになるが国の規模が小さくすべてがスピーディーにおこるため、金融問題解決の実験場としてのアイスランドから目が離せない。

Google対中国2010/01/19 22:06

[今日は趣向をちょっと変えて、大学や大学院で論文を書いていたときのような体裁で記事を書いてみた]

アメリカ西海岸標準時1月12日午後3時(日本時間1月13日午前8時)アメリカのGoogleの会社としてのブログに、同社のDavid Drummondデービッド・ドラモンド [註 1] が、同社の企業インフラに対し中国発の高度なサイバー攻撃が加えられGoogleの知的財産が盗まれたことを発表し、その文を以下のように結んでいる。

<These attacks and the surveillance they have uncovered--combined with
the attempts over the past year to further limit free speech on the web--have
led us to conclude that we should review the feasibility of our business
operations in China. We have decided we are no longer willing to continue
censoring our results on Google.cn, and so over the next few weeks we will be
discussing with the Chinese government the basis on which we could operate
an unfiltered search engine within the law, if at all. We recognize that this
may well mean having to shut down Google.cn, and potentially our offices in
China.これらの攻撃や、攻撃が明らかにした監視体制、及び過去一年間にわたるインターネットにおける言論の自由を更に制限しようとする動きに伴い、我々は中国における事業の可能性を見直すべきだとの結論に至った。我々はGoogle.cnにおける検索結果の自発的な検閲を継続する意思がないことを決め、向こう数週間にわたり中国の当局と中国の法律の許す範囲内で検閲のない検索エンジンの維持が可能なものかどうかを検討する。我々はこれがGoogle.cnを閉鎖し、我々の中国における事業所をゆくゆくは閉鎖することになりうることと認識している。> [註 2]

つまり「中国で検閲のない検索が認められないなら中国を去る用意がある」との意思表示だ。北京のGoogle支社の門前に多数の中国の市民が来るべき中国からの撤退を惜しみ弔花を持って訪れた写真がWWW上に掲載されている。[註 3]

2006年のGoogleの中国進出に当っては、検索に自主検閲をかけるというので社内外で相当議論をよんだことが思い起こされる。New York TimesやFinancial Timesによれば創業者の一人ロシア出身のSergei Brinセルゲイ・ブリンは、旧ソ連における自己の体験に基づく信念から中国進出の際、自主検閲を行うことには反対を主張していたとされる。[註 3, 4]

さて今回のGoogleの発表をどう読むかだ。国際的な人権団体Human Rights Watchのように「Googleは当座の利益よりも企業理念に忠実であった」と拍手喝采を送る向きもあれば[注 5]、このような自殺的な行動をとった結果GoogleがアップルのiPhoneに対抗して発表した携帯電話用ソフトAndroidを始め逸失する商機は計り知れないというものまで[註 6] あるが、私はSlateのテクノロジーコラムを担当するFarhad Manjooの、

Googleは検索の精度に企業価値をかけていたが、これまで自己の中国サイトでは自主検閲を行うことで中国における検索の精度をおとしており、自主検閲中止を宣言したことでit can position
itself to Chinese Web surfers as the one true search engine, the place to go if you want
the real story 中国のウェブサーファーに対して唯一の正確なサーチエンジン、真実を知りたければ訪れるべき場所、としての自分の位置を主張できる

と言う評価 [註 7] がもっとも的をついているのではないかと考えている。と言うのは、インターネットというのはそもそも基本設計が情報をブロックしても、情報が迂回路を見つけて流れるようなになっており、Great Firewall(中国では防火長城と金盾工程という言葉が流通しているようだ)と形容される中国のファイヤーウォールにしても翻墻(fanqiang 塀を乗り越えること)することは可能だからだ。Googleは冷静に「フィルターのかからないデータの得られる唯一の場所」という地位を確保することによるメリットと、中国政府とアレコレ商売することのメリットを天秤にかけ、前者を選択したと言うことだと思う。

尚、1月15日のWall Street Journalには翻墻のテクニックが掲載されていたのがご愛嬌だ [註 8]。

さて、この戦いどういう決着に進むのだろうか?中国の当局が「ハイそうですか」と引き下がって検閲を取りやめることはないだろう。

また「そもそもGoogle自体中国以外の国では自主検閲をしていないのか」と言われればそんなことはない。例えばWall Street Journalは1月4日にGoogle傘下のオンラインコミュニティーOrkutから航空機事故でなくなったアンドラ・プラデシュ州の前州首相に関する記事を自発的に削除していたと報道している。記事によればGoogleは建前上はインドの社会不安を招くような、宗教、カースト、地域に関するコンテンツについて自社の検索結果や傘下サイトの内容に相当注意を払って監察しているとのことだ [註 9]。

となるとこちらは「一度は理想を捨てて中国参入を決めたGoogleのことだ。結果何らかの妥協点をみつけるのではないか?」と言う読みをしがちなのだが…

それにしても自国をthe greatest democracy in the world 世界最大の民主国家と標榜してやまないインド人が民主主義や言論の自由について持つ独特の感情は面白い。同じWall Street JournalがインドのSachin Pilot 通信・技術大臣とのインタービューを掲載しているが [註 10]、ここで大臣が

<What Google does in China is a whole different ballgame. They have
compromised a great deal. Googleの中国での活動は[彼らの通常の活動とは]まったく異なる。彼らはかなりの妥協を行っている>

と表明した舌の根も乾かぬうちに、[註 8]で紹介した事象ついて指摘されると「個人の名誉に当るようなケースであった」とコメントしていることを見て、その感を深くする。

[おことわり]

1. 文章中の中国語については友人の北村豊 住友商事総合研究所中国専任シニアアナリストの教示を受けた。

2. 参考資料はすべてウェブ版に頼っている。記載したリンクは本日現在生きているが、リンクはいつでも変わりうることにご留意いただきたい。

[註]

1. SVP, Corporate Development and Chief Legal Officer経営開発担当上級副社長 兼 最高法務責任者というところ

2. David Drummond, “A new approach to China”, The Official Google Blog, Jan 12, 2010
http://googleblog.blogspot.com/2010/01/new-approach-to-china.html

3. Richard Waters et al., “Google takes on China on censorship”, Financial
Times, Jan 13, 2010
http://www.ft.com/cms/s/0/f65a4ba6-ffd7-11de-ad8c-00144feabdc0.html

4. Miguel Helft, “For Google, a Threat to China With Little Revenue at
Stake”, The New York Times, Jan 14, 2010   http://www.nytimes.com/2010/01/15/world/asia/15google.html?scp=1&sq=for%20google%20a%20threat%20to%20china&st=cse

5. Human Rights Watch communique, “China: Google Challenges
Censorship; Other Companies Should Follow Suit”, Human Rights Watch, Jan 12, 2010
http://www.hrw.org/en/news/2010/01/12/china-google-challenges-censorship

6. Shaun Rein, “Google’s Act of War Against China”, Forbes.com, Jan 14, 2010
http://www.forbes.com/2010/01/14/google-china-threat-leadership-citizenship-rein.html

7. Farhad Manjoo, “Don’t be Evil 2.0”, Slate, Jan 13, 2010
http://www.slate.com/id/2241437/

8. Sky Canaves and Loretta Chao, “Chinese Web Users Plan Tech Workarounds, The Wall Street Journal”, Jan 15, 2010 http://online.wsj.com/article/SB10001424052748704363504575002772946324934.html

9. Amol Sharma and Jessica E Vascellaro, “Google and India Test the Limits of Liberty”, The Wall Street Journal, Jan 4, 2010
http://online.wsj.com/article/SB126239086161213013.html

10. S Mitra Kalita, “India's Tech Minister Offers His Take on Google, China”, The Wall Street Journal, Jan 14, 2010 http://online.wsj.com/article/SB10001424052748703414504575001380081720578.html

And the Indians actually won! -- My take on Avatar2010/01/22 21:24

I am old enough to remember the days when any Western had the obligatory

I am old enough to remember the days when any Western had the obligatory

Indian hordes riding in whooping, shooting their arrows and occasional

guns, only to be beaten back by the cavalry arriving at the last minute and

saving the invariably white, civilization-bearing good guys.  The film

Exodus was essentially of the same theme – only it was the Jews who were

the good guys and the Palestinians who were the bad guys.  This was

eventually followed by movies like Dance with Wolves introducing the

doubting Thomas white guy who eventually turns “native” – but probably

eventually perishes for that perfidy. 

 

Well, in Avatar the bows and arrows wielding Na’vi (who actually look

remarkably like the “Injuns” or yore) actually manages to beat back the

civilization-bearing guys for a change, with the help of the doubting Thomas

white guy.  The film is also interspersed with liberal doses of

(unacknowledged) gaïa themes from Hayao Miyazaki’s animation epic

Nausicaa of the Valley of the Wind.  Okay, with Nausicaa it was a giant

worm who spewed golden colored feelers to resuscitate chosen people, and

in Avatar it’s the giant Tree of Souls with its luminous white strings that

does an identical trick – but you get the drift. 

 

What original twist that Avatar provides is the future world tech that enables

even the paraplegic protagonist Jake to bio-electronically remote control his

avatar.  And bringing juice to that well-worn storyline are the incredible

VFX and 3D technologies, that literally makes you dodge on your theater

seat when that shrapnel jets out of the screen towards you. 

 

So this is my take of the film: well worn story line with a slight twist,

executed with brilliant technology that rivets you to the seat.  Score one for

tech – but when everyone gets used to the 3D technology in action-packed

movies, I still think you’ll need a strong content to pull the audience

through.

 

 

 

インディアンの勝つ西部劇 – アバター映画評2010/01/22 22:35

私が子供のころの西部劇といえば必ずどこかでアワワワワと叫びながら馬に乗って矢や鉄砲を放ちながら主人公の白人のいる村か砦か幌馬車か汽車を襲うインディアンが出てきたものだ。そういう西部劇では、おおむね土壇場でインディアンは撃退されメデタシ、メデタシで映画が終わった。その後これではいかにも白人中心史観に偏りすぎているとの反省から、例えば「ダンス・ウィズ・ウルブス」のようにインディアンを駆逐することに疑問を持つ白人が出る映画が現れてきた。

アバターは地球が開拓を始めた遠い惑星パンドラに住む元々の住人ナヴィが、ナヴィに心を寄せるようになった地球人の兵士の助けを借りて、地球人を駆逐するまでの物語だ。つまりインディアンが勝つ西部劇だ(そういえばナヴィがなんとなくインディアンに似ていることに気がつく)。要するにこの一文で語ることができるほど単純なストーリーの構成なのだ。その単純なストーリーでどうやって2時間半以上観客を飽きさせず引っ張ってゆけるのか?そう、この映画はそれほど観客をあきさせない。答えは、スクリーン上で爆発が起こりカメラに向かって何かが飛んでくると、映画館のイスの上で思わず身をよじるくらいのリアルさをもつVFXと3D技術にある。これだけ技術の力で単純なストーリーを引っ張ることができるのかと唖然とした。ただ観客が3D慣れしてくると(後数年のことだ)、ストーリーの貧弱さをカバーしきれなくなってくる。そのときにはもっと内容のある作品でないとここまで観客を引っ張ることはできないだろう。

この映画を見ていてひとつ気になったのは、宮崎駿の「風の谷のナウシカ」から相当の影響を受けていることが見て取れるのに、映画のどこを見てもそのことがまったく登場しなかったことだ。スタジオジブリは20世紀フォックスとジェームズ・キャメロン監督に対して訴訟を起こしても良いと思う。こいつらを相手に回すとなると相当お金が要るが、これだけの観客動員をした映画だ。勝訴すれば相当のお金が転がり込んでくること間違いない。アメリカにたくさんいる成功報酬で仕事を請け負う弁護士を起用し、弁護士には賠償金の過半が行けばよい、ジブリは訴訟を通じてその存在を世界に知らしめればよい、と割り切ってやってみる価値はある。

水のなるほどクイズ2010