アンバニ兄弟間の訴訟に判決 ― 2010/05/10 22:36
http://mumbaikar.asablo.jp/blog/2009/08/15/4514916
http://mumbaikar.asablo.jp/blog/2009/08/16/4519069
で書いた。
デリーのインド最高裁判所は5月6日この兄弟の争いに判決を下した。復習するとこの裁判はボンベイ高裁が下した「兄のMukesh Ambaniムケシュ・アンバニは兄弟間の合意どおり弟のAnil
Ambaniアニル・アンバニに百万BTU当り$2.34で供給しなければならない」という判決に対して、兄のムケシュが控訴していたもので、最高裁の判決は一転して「兄のムケシュは弟のアニルにインド政府の決めた百万BTU当り$4.20で供給すべし」という内容となった。
この判決に対しアニルは
Though we are disappointed by the final outcome(中略)We now look forward to an
expeditious and successful renegotiation with RIL, within the stipulated period of six weeks, to secure gas supply for the Group's power plants in line with the Supreme Court order. 我々はこの結果は残念に思うが(中略)、定められた6週間のうちにRIL(兄ムケシュの旗艦企業)との間で迅速かつ有意義な再交渉が行われることを期待し、それによりわがグループの発電事業に最高裁の命令に基づきガスの供給が確保されることに期待する。
との声明を発表した。インドにはJudicial Review司法再審査という制度があるので、この最高裁の判決も見直しは可能だ。アニルが「もうこれ以上司法をわずらわせることなく」と断言したわけではないので、6週間たって交渉が決裂した場合どうなるのかは見ものだ。
今回の判決は最高裁判所がある意味「政府の政策は私人間で約定した事項に優先する」という立場を明白にした点がポイントだが、「Ambani一族物語(2/2)」でも書いたように、そもそも百万
BTU当り$2.34という価格は政府企業であるNational Thermal Power Corporation(NTPC、国家火力発電公社)が2004年に天然ガスの入札を行った際に決まった価格であって、その時期としては決して無謀な価格ではなかったし、ある意味政府がお墨付きを与えた価格であったといえる。
アンバニ問題が紛糾した時期から今日までの価格はWellhead井戸元で$3.00~5.00のあたりで推移しており、直近では$4.00前後にあることから判断すると、兄がtransmission feeパイプライン費用などで多少割り引いて、実質Wellhead $4.00弱あたりで弟と手を握れば、それなりに丸く収まるのではないのかという気がする。しかし自意識の強い兄弟のことだ。お互いの面子にこだわれば、問題はまたこじれることになろう。
せっかく国策の優位を最高裁が認めたところで、インド政府は「いつまでもごたごたする場合は公共の利益を守るためにRILのガス田に対する権益と、RNRLの発電免許を両方とも取り上げる」といった強硬策を出してくれれば面白いのだが。
今日はちょっと個人的な話を… ― 2010/05/11 22:29
一月ほど前、大学時代の恩師の夫人を偲ぶ会に出席した。恩師は学問研究に対してきわめて禁欲的な、いわばアカデミズムを体現したような人物で、授業であれゼミナールであれ、くり出される恩師の持つ価値観に基づき整理された該博な知識の奔流に接することは、恩師の意見に同意するしないにかかわらず、まさに「謦咳に接する」体験だった。今日の私のものの見方や考え方の一部は間違いなく恩師が与えてくれたものだ。
恩師の家を数回訪ねたことがあるが、夫人が出てこられたのは茶菓を持って二階にある恩師の書斎に上がってこられるときだけだったので、口をきいたことはほとんどなく、従い印象は極めて希薄だ。もっともこの点は他の同窓も同じであったようで、偲ぶ会で演壇にたった人すべてが同じようなことを語っていた。
その「誰もが知らない夫人」について恩師は概ね次のようなことを語られた。
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夫人は東京女子高等師範学校(東京女高師、現在の御茶ノ水女子大学)に学び、卒業してから理化学研究所に勤めておられた時期があり、そのときライカを使って写真撮影を担当されていた。その結果夫人の写真の腕前は相当なもので、恩師の著書に出てくる写真の多くは夫人の手になるものであった。恩師の発言や、著書にライカの話が出てくることが多かったが「背景にはこれがあったのか」と得心が行った。
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夫人は恩師の著作の浄書を一貫して担当されていたようだ。それだけではなく、山之内一豊の妻のような人物であられたようで、恩師の著作を発行してくれる出版社が見つからなくなった際、資金を工面して自費出版を実現された由で、恩師は「自分が学者として存在できていたのはひとえに妻のおかげであった」と語られていた。
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恩師は数年前に脳梗塞をわずらい(ある年の年賀状に恩師のものとは異なる字体で、病を得てから右腕の自由が利かなくなったので以後年賀状に返事は書けない、との趣旨の添え文が書かれていた)それ以来足腰が不自由で、外出時は夫人が車椅子を押す老老介護の状態であられたようだ。その車椅子が電動車椅子となり、恩師がそれを操作するようになってから、外出時に近所の坂を上がるとき夫人がついて行けなくなることが発生したようで、恩師はそのことを非常に悔やまれていた。
これで話を終わられたかと思っていたら、「もう一つ」といって恩師は以下のようなエピソードを語られた。
夫人の父親(つまり恩師の岳父)は東京女高師の教授であった。当時東京女高師には多数の朝鮮半島出身の女子学生が学んでいたが、それらの生徒の寮に頻繁に特高警察による立ち入り検査が行なわれていた時期があり、岳父は特高警察に出向きそれに強く抗議したという。それを徳とした朝鮮半島出身の女学生の家族から岳父には定期的に贈り物が届けられ、岳父の死後には義理堅く残された家族に贈り物が届いていたようだ。
これは恩師が岳父の人徳をたたえるために紹介したエピソードだと思うが、以前の恩師であったらこのような行為を「アジア的な贈り物文化」として批判的に語っていたのではないかと思うにつけ、私はある種の感慨を持って恩師のこの部分の発言をきいた。
恩師はこれだけのことを時間をかけ、低い声でつっかえながら語った。
実は私の父は79歳のときに脳内出血に倒れ、それから数年はそれなりの会話ができる状態を続けていた。父が公の席で最後に発言したのは倒れてから約4年後に、関係していた国際的な団体がニュージーランドのオークランドで開催する大会で功労賞を授与されることになり、その団体の招待でオークランドに赴き、妹が書いて浄書した授賞演説の草稿(英文)を読んだときだ。妹によれば父はそのとき適宜アドリブを入れながら話をしたので「結構やるじゃない」と驚いたようだ。母はその国際大会の翌年に胆嚢癌で父に先立ったが、その時点では父は事態を正確にかつ継続的に認識していられる状態ではなかった。しかし認識がつながったときは、自分の看病のために母の早い死を招いてしまったのではないかと深く悔やんでいた。
そのような父の姿を見ている私は、父の姿と恩師の姿をどうしても重ねあわさざるを得ない。つっかえながらも、とにもかくにも亡き妻の思い出を語り終えられた恩師は、しかし私が挨拶に行っても私のことを認識されることはなかった。晩年の父がそうであったように、先に往った夫人に関する記憶が薄れることになられるのだろうか。恩師の精神的なレベルはどれくらい継続できるのだろう。絶え間なくそのようなことを自問しながら会場を立ち去り、春爛漫の住宅街を抜けて帰途についた。
ユーロ防衛策発動に思う ― 2010/05/11 23:43
5月10日早朝、11時間にわたる協議を経てEconomic and Financial Council (ECOFIN、EU
蔵相会議)は、IMFの拠出金2500億ユーロ(30兆円)を含む総計7500億ユーロ(90兆円)の
ユーロの安定策に合意した。今回の安定策は既に発表されているギリシャ向けの1100億ユ
ーロ(13兆円)の支援策に対する追加だ。この結果を受けた世界の金融市場の動きを見る
と、ギリシャ通貨危機に端を発したユーロ不安はこれでとりあえず終息したものと思われる。
会議の結果を総括したEU事務局のOlli Rehnオリー・レーンは
we reaffirm our commitment to ensure the stability, unity and integrity of the euro area
我々はユーロ圏の安定、統合、信頼を維持することの責務を再確認する
と発言したが、これはまさに私がギリシャ問題に関連して「それでもなんとかなるでしょう」
http://mumbaikar.asablo.jp/blog/2010/04/06/4997644
で「EU には都度それに対処するメカニズムが存在しているということを認識しておく必要が
ある」と書いたことの実現だ。何のかんのと言いながら、ヨーロッパ統合という大目標を共有
するEU諸国は時間がかかっても何らかの合意に到達するのだ。いや、せざるを得ないの
だ。
我々はよく「ヨーロッパ人は何であんなに休暇をとっても生活をエンジョイしながらやってゆ
けるのだろう?」という疑問を持つことがあるが、ヨーロッパの、少なくとも南ヨーロッパで
は、その優雅な生活を維持するためのバランスが崩れ始めており、日本にいる我々が既経
験している生活水準の低下といった縮小均衡に直面することが現実の可能性として出てき
ている。温暖な気候、美しい自然環境や文化遺産、うまい食事と酒がとりえの南ヨーロッパ
のスペイン、ギリシャ、ポルトガル、イタリー。極端な言い方をすれば、はたして今後これだ
けでEUのメンバーとしてそれなりに充実した社会保障や福祉を維持し続けることができる
のだろうか?
しかし問題をもう少し別な観点から見てみる必要がある。EU加盟以来、南ヨーロッパの
国々が優雅な生活を維持できた背景の一面は資金がEU本部から補助金の形で、或いは
「アルプスの北の国々」から民間融資の形で流れ込んだからだ。5月10日にNew York
Timesが作成した以下の図を見ていただければ、如何にドイツやフランスやイギリスの銀行
からPIIGS(ポルトガル、イタリー、アイルランド、ギリシャ、スペイン)諸国に大量の民間融資
が流れ込んだのかわかる。つまりPIIGS諸国の経済成長や優雅な生活の大きな部分がEU
本部や「アルプスの北の国々」からの融資に依存しており、貸し込んだ「アルプスの北の
国々」の金融機関はPIIGS諸国が債務不履行になると自分自身債務超過となる、いわば一
蓮托生の関係にあるのだ。
ヨーロッパ統合は見た目よりはるかに進行しており、政治家が「ギリシャは先ず自助努力
を」と公式声明を出してみたところで、その実ギリシャが債務不履行になれば真っ先に困る
のが750億ドル貸し込んでいるフランスの金融機関であり、450億ドル貸し込んでいるドイツ
の金融機関なのだ。スペインやイタリーの場合は「アルプスの北」の金融機関が貸し込んで
いる規模は更に大きい。EUの今回の声明「我々はユーロ圏の安定、統合、信頼を維持す
ることの責務を再確認する」の背景にはこのもはや後戻りできないヨーロッパ統合の認識が
あることを見逃してはならないだろう。
タイの「赤シャツ」運動鎮圧に思う ― 2010/05/24 22:44
http://www.somtow.org/
彼のウェブサイト
http://www.somtow.com/bio.html
に記載されている略歴を見ると、イギリスのエリート全寮制中等学校であるEton Collegeイートンを経てCambridge Universityケンブリッジ大学で学んだと書いてあるので、タイの現首相の
Abhisit Vejjajivaアピシット(アピシットはイートンをへてOxford Universityオックスフォード大学卒)と同じように、中、高、大とヨーロッパで教育を受けたタイのエリートだとわかる。そのソムトウの立場をまとめれば「赤シャツの人たちの求めていたものは正しい。しかしタイは民主化に向かって動いているので時間を貸してくれ」というところだと思う。
脱線するが5/11にイギリスの首相になったばかりのDavid Cameronキャメロンもアピシットと同じくEtonを経てオックスフォード大学卒だ。二人は年齢的にも近く(アピシットは1964年生まれ、キャメロンは1966年生まれ)、共に大学在学中の成績は極めて優秀であった証拠にfirst class
honours(1級。イギリスの大学は卒業時の成績に基づき、学位に1、2(1)、2(2)、合格という4段階のレベルがつく)というレベルで卒業している。
タイについて私は知見がない。従い以下に書くことはまったくのタイに関する素人の言説だという前提で読まれたい。
タイは東南アジアの優等生だという。取り立てて資源があるわけではないのに、勤勉な人々の努力と、たびたび軍政となりながらも政府が総じて開明的な政策をとり続けた結果、1997年のアジア危機で経済が苦境に陥るなどの挫折もあったが、徐々に国の経済が発展してきた。経済成長の過程でさまざまなアンバランスが生じたが(タイ東北部の開発が遅れているとか、’80年代の始め頃タイの国際電話回線が不足していたとか、公共交通機関が絶対的に不足している首都バンコックで交通渋滞がひどいとか言った逸話が思い出される)、それも克服して/あるいは克服しつつ今日にいたっている、というのが大方の評価ではなかろうか。
しかしそれだけでは何ゆえタイの政治がここ数年このように混乱していたのか?という疑問に答えられない。
ソムトウのブログを見ると一つの回答が得られる。Thaksin Shinawatraタクシンが首相であった時期(2001~2006年)、彼が利権を独り占めにしたことに既得権を持つ政治経済のエリート層が反発したというのだ。なるほど。その場合ソムトウが見落としていると思われる点は、タクシンが独り占めにした利権でかき集めた財を、ちょうど古の田中角栄元首相のように、自分にも残しはしたが貧しい人々の間にもばらまいたという点だ。そうでなければ貧しい人々の間であれほどのタクシン人気はおきない。
ソムトウも認めるように、「タイの政治はすべて腐敗している」のであれば、その腐敗の追及がタクシンや彼が追放されてからのタクシンのダミーに対して選択的に行われ、タクシン以前のエリート層に対してはほぼお咎めなしだったことは問題だ。このように国の法律が不公平にあてはめられなければ、タクシン政権下で恩恵を受けたいわゆる赤シャツ(タクシン派)の人々があそこまで反発し、事態がここまで混乱することはなかったはずだ。
「赤シャツの乱」は結局5/19に軍が目抜き通りのRajaprasongラジャプラソン街など赤シャツの人たちが占拠していた地域に侵攻し、首謀者がすべて政府側に投降する形で収束した。軍の侵攻直前には赤シャツ派の数は数千に過ぎず、赤シャツ派の運動も息切れしていたことは事実だ。しかし鎮圧が成功したからといって、すべてが日常に戻ると考えるべきではない。
戦前の日本のことを思い出してみよう。陸軍の若手将校によるクーデター未遂事件である1936年の二・二六事件が起きた基本的な原因は、20歳代の若手将校や兵士の姉や妹が食い扶持を減らすために村を離れ、場合によっては人買いの手によって苦界に身を落とさざるを得なかった、当時の日本の農村部の疲弊にある。二・二六事件は昭和天皇が一貫して「朕ガ最モ信頼セル老臣ヲ悉ク倒スハ、真綿ニテ朕ガ首ヲ締ムルニ等シキ行為ナリ」という態度を示したこともあって厳重に鎮圧されたが(この鎮圧ぶりは徹底しており、クーデターを首謀した将校に従っただけの一般兵士も所属の部隊に「消耗部隊」というレッテルを貼られ激戦地に送り込まれた)、農村部の疲弊に根ざすエネルギーがそのまま軍の中に宿り、そのエネルギーのはけ口を求めて日本は第二次世界大戦になだれこんで行ったことを忘れてはならない。
タイの北部や東北部の農村についても同じような条件が存在する。アピシットやソムトウのようなタイのエリートは首都バンコックの売春窟に娘を送り出さざるを得なかった貧しい農村部の人々の屈辱感をもっと自分のものとして認識すべきだと思う。またアビシットは身辺がきれいであるとされるが、彼の内閣は商務省副大臣に任用された「ソープランド」チェーンのオーナーである
Pornthiva Nakasaiポルンティワなどを始め、お世辞にも身辺がきれいな人々揃いとは言えない。彼らが新たに利権の分割のみを画策し、有効な社会融和策が矢継ぎ早に打ち出せなければ、民衆の不満が改善されず、「時間を貸す」ことは反乱の種が更に大きくなる結果をもたらすことになるだろう。
この結果「微笑みの国」タイでイラン型の、前政権関係者の大量処刑や弾圧を伴う革命が起きないことを切に願ってやまない。イラン革命が腐敗して行った展開を知っているものとしてその気持ちはなおさらだ。
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