「戦火のナージャ」「ミスター・ノーバディ」「ブルーバレンタイン」2011/05/11 21:43

連休の間、立て続けに3本映画を見たのでその印象をざっと書いてみたい。

最初に見たのが「戦火のナージャ」(制作2011年。4月16日に封切った日本は何と5月5日に封切った制作国のロシアより早い封切だった!やればできるんだ。原題
Утомленные солнцем 2: Цитадель、「太陽に灼かれて 2:要塞」の意)

原題からわかるように映画は1994年に製作された「太陽に灼かれて」(本邦上映は2001年?)の続編だ。監督のニキータ・ミハルコフはソ連国歌及び現在のロシア国歌の作詞をした詩人セルゲイ・ミハルコフの息子という芸術家の家系生まれのロシアのインテリゲンチャ(知識層)の一員だ。

学生時代には今より頻繁にソ連映画が上映されていたから、何度かソ連映画を見た。ほとんどがロシアの文学作品を映画化したものか、第二次世界大戦の独ソ戦の一局面を描いたもので、ゆっくりしたペースで物語が展開するのが印象的だった。いずれも見た後は内容の是非にかかわらず「映画を見たぁ」というズッシリ感があった。この映画もその「昔懐かしいソ連映画風の映画だろう」と思って見に行ったら予想通りだった。「恐らくアメリカ映画なら2/3以下の長さで同じストーリーを語っていたのだろう」と言う感じだ。

映画の内容などについてはMovie Walkerをはじめあちこちに出ているのでここには書かない。私が印象的だったのは、特権階級といえどもスターリンの恣意でその身分がどうにでもなったスターリン時代のソ連に生きる人々の緊張や諦観の描き方だ。そのような時代の状況やその中で生活する人々の心理を、隠喩を用いずに描くことができるロシアは、政治や思想の解放については中国より数歩先を行っていることがこんなことからも実感できる。

次に見に行ったのはSF映画だと言う理由で見に行った「ミスター・ノーバディ」(2009年制作。原題も同じMr Nobody)

ストーリー展開ははなはだ複雑で、余り論理的に筋を追いかけるとワケが分からなくなる。要は人生いろいろな分岐点があって、どの分岐点でどのような選択をするかで人生の展開が大きく変わる、というストーリーだ。印象的だったのは幼いころの主人公と恋仲になり、ある展開ではその関係が長い間の空白を経て再会を果たし関係が復活すると言う設定の中の配役が「実際の人物がそのまま年を経ればこのようになろう」というくらい適切だったことだ。「戦火のナージャ」では主人公二人(両者の関係は父娘)が実生活でも父娘で、そのため前作の「太陽に灼かれて」を見た人は自然に続編であるこの映画を見ることができるようになっている。このような配役を行った一因は、或いはロシアの映画俳優層が薄いことが理由ではなかったかと思われるが、ドイツ、フランス、ベルギー、カナダ四カ国の共同制作になる「ミスター・ノーバディ」ではそのような懸念は必要なかったろう。

最後に「ブルーバレンタイン」(2010年制作。原題も同じBlue Valentine)を見た

簡単に言ってしまえば「結婚前と結婚後4、5年の夫婦の愛と、二人の間の落差が集積していった結果の別れ」がテーマの映画だ。結婚に至るプロセスや結婚後の二人の生活を丹念に描くことで、そもそも結婚前から二人の間には落差があったこと、しかし女性のほうはそのときのボーイフレンドとの関係に辟易しており、成り行きで「できちゃった」その彼女を包みこんでくれた男性の温かさのなかで、二人の間の落差をみる客観性を失い結婚に進んだ行ったことを浮かび上がらせる。

結婚後数年。男性の側は倦怠を感じつつも今の生活に満足している。二人の間の子供も愛している。妻があれこれ愚痴を言っても彼女と言い争うのではなく「自分がどうなればよいのか教えてくれ」と妻に質す、要するに夫として格別の失点のない存在だ。しかし「医師になろう」との夢を捨て、結婚し、子供を産み、田舎の病院で看護婦になっている女性は結婚後数年たった今、結婚前には見えていなかった相手との落差がみえている。彼女はその落差を実感しながら鬱々として過ごすような毎日が不満だ。テーマは簡単だがこのあたりのディテールの描き方が細かい。そしてそれを「戦火のナージャ」より手短に要領よくまとめている。ディテールの点で難を言えば、「今」の女性が「以前」と余り変わっておらず、「今」の男性のみ老けた感じだったのが気になったことくらいだろうか。

見終わってからその昔見た映画「ミセス・ダウト」(制作1993年。原題はほとんど同じMrs
Doubtfire)を思い出した。ミセス・ダウトの主人公も自分の家庭を愛する、格別の失点のない、否自分の家庭以外を顧みないという失点のある男性だが、それに飽き足らない妻に離婚される。離婚調停の結果子供は妻に持って行かれてしまったので、毎日子供に会おうと女装して家政婦として昔の家に住み込む。喜劇仕立てになっていたがテーマは結構きつかった。

アメリカの小説や映画にはこのような、女性のモヤモヤした不満にどうやって付き合うのか戸惑ったり翻弄されたりする男性をテーマにしたものが結構多い。映画や小説だけのことではない。現実の世界でも「客観的に言ってこの夫婦、相手に何の不満があって離婚したのだろう」と思わせる事例に事欠かない。「夫婦の関係はいつまでも愛だ、夢だではなく、いかにお互いの現実にあわせてもたせるのかだ」という感覚は、アメリカ人の夫婦の多くも持っている感覚なのだろうに…だ。

しかし冷静に見てみよう。アメリカの結婚の半数以上が離婚に終ることからも明らかなように、アメリカ人の多くはいつまでも「愛だ、夢だ」の男女関係を求め続け、結婚生活でそれが感じられなくなると残りの家族のことは顧みず、一路別離に向かうという直線的な感覚を持っている。「ミセス・ダウト」にしても「ブルーバレンタイン」にしても、アメリカ人のもつこのように一途な側面をえがいた作品なのだ。「ブルーバレンタイン」を見てから一週間くらいたった今そんな事を思っている。「やりきれない後味を残しつつも今になってもいろいろ考えさせられている分、ゴールデンウィーク中に見た映画の中では『ブルーバレンタイン』が一番の秀作であった」ということになろうか。

水のなるほどクイズ2010