パキスタンはfailed stateか?(1/2) ― 2009/04/15 00:33
Failed states(直訳すると「破綻した国家」)に関するスイスのチューリッヒ大学ダニエル・テューラー国際法、欧州法、憲法、行政法教授の定義:
States in which institutions and law and order have totally or partially collapsed under the pressure and amidst the confusion of erupting violence, yet which subsist as a ghostly presence on the world map.
暴力の暴発に伴う圧力や混乱により国家の機関、法律、秩序が完全にまたは部分的に崩壊しながらも、世界地図上に影のように存続している国家のこと。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
このブログではインドのことをアレコレ取上げて行こうと考えている。インドがその主要部分を占めるインド亜大陸にはバングラデシュ、パキスタン、ネパール、ブータンの四カ国があり、インド亜大陸周辺の海上にはスリランカ、モルディブの両国が存在する。これらの国のうちで私がある程度知識のある国々についても書いて行きたいと考えている。パキスタン以外の国についてはおいおいふれてゆくとして、今回はパキスタンについて書きたい。
インドとパキスタンは1947年8月、1日違いでそれぞれ大英帝国から独立した。「インドの民主主義」
http://mumbaikar.asablo.jp/blog/2009/04/01/4219988
のところで書いたが、「インドは『多様性』を国の統一原理として成立した」と説明できるが、インドより1日早く独立したパキスタンは正式国名である「パキスタン・イスラム共和国」からも明らかなように、イスラム教がその国家成立の根拠となっている。
英領インド帝国が独立する際、イスラム教徒の多い地域を中心にパキスタンが構成された、それらの地域の頭文字をとってPakistanと言う国家が命名された。イスラム教徒の多い地域とは以下の5地域である。
P パンジャブ
A アフガニア(現在の北西部辺境州)
K カシミール
S シンド
Stan [バルチ]スタン
(Pakstanでは発音がしにくいので"K"と"S"の間に"I"が後で加えられた)
パキスタンが成立したとき、パキスタンはインドとイランの間に横たわる西パキスタンと、 その約2400キロ東の東パキスタンの二つの部分からなっていた。東パキスタンの主たる民族はベンガル人である。宗教上の理由でベンガル州は東パキスタンとインドの西ベンガル州に分けられたが、そもそもパキスタンという国名にはベンガルの"B"が入っていないことに注目されたい。
東パキスタンとインドの西ベンガル州では同じベンガル人どうしで文字も言語も文化も共通だ。これを象徴するのがインドもバングラデシュ(後述するように東パキスタンが1971年にパキスタンから独立して成立した国家)も、それぞれの国歌の作詞者がベンガル人のヒンズー教徒でアジア初のノーベル賞受賞者であるタゴールである点だ(バングラデシュ国歌の場合タゴールの作詞作曲)。
「民族の血が宗教に勝っていたから」というか、「行政の中心であった西パキスタンが、人口においても外貨収入においても優位にあった東パキスタンの統治に失敗したから」というか。
1970年11月のサイクロン(台風)被害に対する西パキスタンにある政府の対応不良、同年12月~翌年1月にかけて行われた総選挙の結果人口の多い東パキスタンを基盤とするアワミ連合が東パキスタンの議席をすべて押さえて圧勝したにもかかわらず政権樹立を阻まれ、更に西パキスタンの民族からなる西パキスタン派遣軍が東パキスタンに進駐し、アワミ連合党首ムジブル・ラーマン氏が西パキスタンに拉致されたことが契機となり1971年3月に独立戦争が勃発、最終的にはインド軍の介入もあって東パキスタンは1971年12月にバングラデシュとして独立した。現在のパキスタンは1947年の独立時の西パキスタンがその政府の統治範囲である。
「パキスタン政府の統治範囲」と書いたが、その実パキスタンは建国の時点から中央政府の統治が及ばない地域を包含していた。Federally Administered Tribal Area(略称FATA。「連邦統治下の部族地帯」の意)、フンザ、ナガール両藩王国などの地域、更には北西部辺境州とバルチスタン州内にあるProvincially Administered Tribal Area(略称PATA。「州統治下の部族地帯」の意)である。フンザ、ナガール両藩王国は現在Federally Administered Northern Area(略称FANA。「連邦統治下の北部地域」の意)と言う自治体の一部となっている。これらの地域では伝統的な部族制社会がそのまま存続しており、中央政府の委託を受けた格好になっている部族の長がそれぞれの考えや伝統に基づいて部族を統治している。
Failed stateのひとつの指標として、国としての機能が国内の隅々まで提供できず(例えば警察の力や税金を徴収する力が国の隅々まで及んでいない)、他国との取決めを守るよう国論をまとめておく力が政府にない(例えば条約を結んでも国の一部が締結された条約とは異なる行動を勝手にとる)という点がある。上述のようにパキスタンは建国のときから国としての機能が国内の隅々まで行き渡らない状況を持っていた。部族の長が中央政府を立てていれば他国との取決めは概ね守ることができる。この部族の長の力がさまざまな理由から増し、中央政府のコントロールが効かない状況になってきたため、「パキスタンがfailed stateではないか」と言われるようになってきたのが昨今の状況だ。
直近のfailed state状況の伸張を最も象徴的にあらわしている事件を三件だけあげる:
2007年12月に党の集会に参加していた野党第一党のブット党首が集会のおわったところで爆殺された、
今年3/3にパキスタン第二の都市ラホール(人口約1000万人)で開催されるクリケット(野球の原型とも言われる英国のお球技)の国際試合に参加するスリランカの選手を乗せたバスが襲われた、
首都イスラマバードからわずか100数十キロの距離にある北西部辺境州のPATAであるスワット盆地がイスラム原理主義勢力の支配下となり、ザルダリ大統領(2007年に暗殺されたブット女史の夫)が4/13付でこの地域におけるイスラム法による統治を認める法案に署名した。スワット盆地はそもそも首都の富裕層や外国人が避暑やスキーに訪れるような場所であったが、昨年後半からイスラム原理主義勢力の侵攻でオチオチそのようなことができるような状況ではなくなっていた。今回の措置はイスラム原理主義勢力の統治を認めて治安を回復するのが目的であるが、政府による自分の国の一部における統治放棄であることにかわりはない。
States in which institutions and law and order have totally or partially collapsed under the pressure and amidst the confusion of erupting violence, yet which subsist as a ghostly presence on the world map.
暴力の暴発に伴う圧力や混乱により国家の機関、法律、秩序が完全にまたは部分的に崩壊しながらも、世界地図上に影のように存続している国家のこと。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
このブログではインドのことをアレコレ取上げて行こうと考えている。インドがその主要部分を占めるインド亜大陸にはバングラデシュ、パキスタン、ネパール、ブータンの四カ国があり、インド亜大陸周辺の海上にはスリランカ、モルディブの両国が存在する。これらの国のうちで私がある程度知識のある国々についても書いて行きたいと考えている。パキスタン以外の国についてはおいおいふれてゆくとして、今回はパキスタンについて書きたい。
インドとパキスタンは1947年8月、1日違いでそれぞれ大英帝国から独立した。「インドの民主主義」
http://mumbaikar.asablo.jp/blog/2009/04/01/4219988
のところで書いたが、「インドは『多様性』を国の統一原理として成立した」と説明できるが、インドより1日早く独立したパキスタンは正式国名である「パキスタン・イスラム共和国」からも明らかなように、イスラム教がその国家成立の根拠となっている。
英領インド帝国が独立する際、イスラム教徒の多い地域を中心にパキスタンが構成された、それらの地域の頭文字をとってPakistanと言う国家が命名された。イスラム教徒の多い地域とは以下の5地域である。
P パンジャブ
A アフガニア(現在の北西部辺境州)
K カシミール
S シンド
Stan [バルチ]スタン
(Pakstanでは発音がしにくいので"K"と"S"の間に"I"が後で加えられた)
パキスタンが成立したとき、パキスタンはインドとイランの間に横たわる西パキスタンと、 その約2400キロ東の東パキスタンの二つの部分からなっていた。東パキスタンの主たる民族はベンガル人である。宗教上の理由でベンガル州は東パキスタンとインドの西ベンガル州に分けられたが、そもそもパキスタンという国名にはベンガルの"B"が入っていないことに注目されたい。
東パキスタンとインドの西ベンガル州では同じベンガル人どうしで文字も言語も文化も共通だ。これを象徴するのがインドもバングラデシュ(後述するように東パキスタンが1971年にパキスタンから独立して成立した国家)も、それぞれの国歌の作詞者がベンガル人のヒンズー教徒でアジア初のノーベル賞受賞者であるタゴールである点だ(バングラデシュ国歌の場合タゴールの作詞作曲)。
「民族の血が宗教に勝っていたから」というか、「行政の中心であった西パキスタンが、人口においても外貨収入においても優位にあった東パキスタンの統治に失敗したから」というか。
1970年11月のサイクロン(台風)被害に対する西パキスタンにある政府の対応不良、同年12月~翌年1月にかけて行われた総選挙の結果人口の多い東パキスタンを基盤とするアワミ連合が東パキスタンの議席をすべて押さえて圧勝したにもかかわらず政権樹立を阻まれ、更に西パキスタンの民族からなる西パキスタン派遣軍が東パキスタンに進駐し、アワミ連合党首ムジブル・ラーマン氏が西パキスタンに拉致されたことが契機となり1971年3月に独立戦争が勃発、最終的にはインド軍の介入もあって東パキスタンは1971年12月にバングラデシュとして独立した。現在のパキスタンは1947年の独立時の西パキスタンがその政府の統治範囲である。
「パキスタン政府の統治範囲」と書いたが、その実パキスタンは建国の時点から中央政府の統治が及ばない地域を包含していた。Federally Administered Tribal Area(略称FATA。「連邦統治下の部族地帯」の意)、フンザ、ナガール両藩王国などの地域、更には北西部辺境州とバルチスタン州内にあるProvincially Administered Tribal Area(略称PATA。「州統治下の部族地帯」の意)である。フンザ、ナガール両藩王国は現在Federally Administered Northern Area(略称FANA。「連邦統治下の北部地域」の意)と言う自治体の一部となっている。これらの地域では伝統的な部族制社会がそのまま存続しており、中央政府の委託を受けた格好になっている部族の長がそれぞれの考えや伝統に基づいて部族を統治している。
Failed stateのひとつの指標として、国としての機能が国内の隅々まで提供できず(例えば警察の力や税金を徴収する力が国の隅々まで及んでいない)、他国との取決めを守るよう国論をまとめておく力が政府にない(例えば条約を結んでも国の一部が締結された条約とは異なる行動を勝手にとる)という点がある。上述のようにパキスタンは建国のときから国としての機能が国内の隅々まで行き渡らない状況を持っていた。部族の長が中央政府を立てていれば他国との取決めは概ね守ることができる。この部族の長の力がさまざまな理由から増し、中央政府のコントロールが効かない状況になってきたため、「パキスタンがfailed stateではないか」と言われるようになってきたのが昨今の状況だ。
直近のfailed state状況の伸張を最も象徴的にあらわしている事件を三件だけあげる:
2007年12月に党の集会に参加していた野党第一党のブット党首が集会のおわったところで爆殺された、
今年3/3にパキスタン第二の都市ラホール(人口約1000万人)で開催されるクリケット(野球の原型とも言われる英国のお球技)の国際試合に参加するスリランカの選手を乗せたバスが襲われた、
首都イスラマバードからわずか100数十キロの距離にある北西部辺境州のPATAであるスワット盆地がイスラム原理主義勢力の支配下となり、ザルダリ大統領(2007年に暗殺されたブット女史の夫)が4/13付でこの地域におけるイスラム法による統治を認める法案に署名した。スワット盆地はそもそも首都の富裕層や外国人が避暑やスキーに訪れるような場所であったが、昨年後半からイスラム原理主義勢力の侵攻でオチオチそのようなことができるような状況ではなくなっていた。今回の措置はイスラム原理主義勢力の統治を認めて治安を回復するのが目的であるが、政府による自分の国の一部における統治放棄であることにかわりはない。
パキスタンはfailed stateか?(2/2) ― 2009/04/15 01:32
何ゆえ中央政府のコントロールが効かなくなってきたのか?
インド、パキスタン両国が1947年に独立して以来、三回にわたり交戦している。現在でも両国の国防政策上、想定の敵は第一義的には相手の国である。これはこの地域の情勢を多少知っている人にとっては常識だ。
ここがあまり認識されていない重要なポイントだが、パキスタンの想定の敵その二はアフガニスタンだ。
アフガニスタンである理由はパシトゥン人の存在だ。前述のパキスタン政府の統治の及ばないFATAとその隣の北西部辺境州の住人のほとんどはパシトゥン人だ。同じパシトゥン人は国境を越えたアフガニスタンでは最大の民族だ。カルザイ大統領はパシトゥン人だし、タリバンの主たる構成員もパシトゥン人だ。伝統的にパシトゥン人が住んでいた地域に人為的に国境線がひかれたためにこのようなことになった。パキスタンにとってみればパシトゥン人が国境を越えて団結すれば、国が割れる事態になる。そのアフガニスタンは伝統的にパシトゥン人が統治してきており、過去パシトゥン人の大同団結をとなえてみたり、その意思を行動に移してきた実績がある。第二の想定敵であるわけだ。このような事情からパキスタンにとってはアフガニスタンがたえずある程度不安定でパシトゥン人がアフガニスタンの他の民族と争っている状態であるほうが都合が良い。
パキスタン軍には1948年に設立されたDirectorate of Inter-Services Intelligence(略称ISI。軍間情報局)と言う組織がある。陸海空三軍にまたがる軍の情報機関だ。1979年12月、アフガニスタンの国内治安混乱に伴い親ソの政府に加勢する形でソ連がアフガニスタンに攻め込んだが、これに対抗してアメリカはアフガニスタンの反政府勢力に武器、弾薬、資金の援助を実施する必要が出てきた。パキスタンの想定の敵その二がアフガニスタンであることを思い出してほしい。アフガニスタンを不安定化させる大義名分が立つちょうど良いチャンスだ。ISIは率先してこの計画に加担した。
この種の関与は化学や物理の実験のようにキチンと定量化された状況の中で、予測できる結果が出てくるような類のものではない。アメリカにとっても、おそらくISIにとっても、予想外であったことは、ソ連をたたき出してからアフガニスタンが急速にイスラム原理主義者によって支配される事態となり、そのイスラム原理主義者たちが結構しっかりと国を統治したことだと思う(しっかり国を統治したことと、統治が民主的であるかどうかは別だ)。そのイスラム原理主義者がソ連との戦いに勝った余勢をかって国境の外に活動の手を伸ばし始めることはある程度予想していたにしても、その手が伸びてくるスピードや範囲は予想外だったはずだ。
おそらくここまで来た時点でISIの関係者の間では、「事態が容易にコントロールできるものではなくなった」との認識とともに、「コントロールを誤ると国家の再度の分断のリスク」という認識が出てきたと思われる。軍人官僚である彼らの考えたコントロールとは、おそらくこれまでの政策である
* 「政府の統治の及ばない地域」の中での「自治」を認め、
* アフガニスタン内ではたえず低度の混乱が起きるように仕掛け
* これに反抗する部族に対してはアメとムチで臨む
の一層の遵守であろう。しかし、前述のとおりこのようなことはそんなにうまくコントロールできるものではない。むしろ現在はイスラム原理主義者の勢力が徐々に「パキスタン政府の統治が及んでいる」地域にまで及んできている、つまり徐々にパキスタンがfailed stateに向かい始めた状況と形容できよう。
何でパキスタン国内にアフガニスタンのイスラム原理主義者と呼応するような勢力が出てきたのだろうか?
パキスタンがイスラム共和国であることは前述した。1960年代に完成した新首都の名前がイスラマバード(イスラムの町)であることは象徴的だ。しかしもっと現実的な理由がある。
話を 1973年の石油危機までさかのぼろう。パキスタンは産油国ではない。石油危機で経済が苦境に陥った政府はパキスタンに豊富に存在する「人材」を中東産油国に働きに行かせ、同じイスラム教国である中東からの投資を呼び込むことに注力した。リヤルプールというパキスタンで三番目に大きな都市の名前をサウジアラビアのファイサル国王にちなんでファイサラバードと改名するなど涙ぐましい努力もした。この結果パキスタンは中東産油国からの投資を呼び込むことに成功したが、同時に中東版の、異物に対する許容度の低いイスラム教の文化が流れ込む結果ともなった。
特にパキスタン社会に大きな影響を与えたのは、中東の政府や有力者の資金で設立された多数のイスラム教の神学校だ。これら神学校が公教育の及んでいない地域の人々に読み書きを広めると同時に、中東版のイスラム教の教義も広めていった。神学校の多くはまさに政府の統治の及ばないFATAなどに設置されていったのである。
神学校を卒業しても仕事がなければ、どこからともなくお軍資金が出て武器と軍事訓練が与えられアフガニスタンに聖戦を戦いに行く道が開けていた。聖戦から帰った戦士はISIがその必要に応じてカシミールに派遣してインドのかく乱にあたらせた。こうして、国内で偏狭なイスラム教の教育を受けた若者を、中東の政府や個人やパキスタンの政府機関が手を貸す形で、武器を与え聖戦に赴く伝統が出来上がった。もうひとつ注目すべきは政府の統治の及ばないFATAやPATA地域における伝統的なgun culture(銃保有文化)の存在である。’80年代以降この二つが化合した。パキスタンは武装した不平分子が自己増殖する装置を手に入れてしまったのである。
パキスタンのfailed state化を止めるのは容易ではない。
まずは経済成長を通じて国民を貧困から解放することからはじめる必要がある。同時に教育を通じて今貧しい人々の間で流通している偏狭なイスラム教の教義の束縛から国民を解放する必要がある。しかし、綿や繊維製品や米以外これと言った輸出商品もなく、必ずしも企業活動のための環境が整っているとは言いがたい国がどうやって経済成長を成し遂げるのだろう?また教育を広げようとしても、イスラム教式の教育を継続することで利益を受ける厚い層がある社会状況の中でどうやってそれから離れた教育を展開できるのだろうか?
ここはパキスタンに広範な国民に支持された開明的な指導者が出現することを望みたいが、そこはfailed state、開明的な指導者には暗殺されるリスクがつきまとう。
国際社会は当面パキスタンのfailed state化が進まないよう祈るしかないのだろうか?
インド、パキスタン両国が1947年に独立して以来、三回にわたり交戦している。現在でも両国の国防政策上、想定の敵は第一義的には相手の国である。これはこの地域の情勢を多少知っている人にとっては常識だ。
ここがあまり認識されていない重要なポイントだが、パキスタンの想定の敵その二はアフガニスタンだ。
アフガニスタンである理由はパシトゥン人の存在だ。前述のパキスタン政府の統治の及ばないFATAとその隣の北西部辺境州の住人のほとんどはパシトゥン人だ。同じパシトゥン人は国境を越えたアフガニスタンでは最大の民族だ。カルザイ大統領はパシトゥン人だし、タリバンの主たる構成員もパシトゥン人だ。伝統的にパシトゥン人が住んでいた地域に人為的に国境線がひかれたためにこのようなことになった。パキスタンにとってみればパシトゥン人が国境を越えて団結すれば、国が割れる事態になる。そのアフガニスタンは伝統的にパシトゥン人が統治してきており、過去パシトゥン人の大同団結をとなえてみたり、その意思を行動に移してきた実績がある。第二の想定敵であるわけだ。このような事情からパキスタンにとってはアフガニスタンがたえずある程度不安定でパシトゥン人がアフガニスタンの他の民族と争っている状態であるほうが都合が良い。
パキスタン軍には1948年に設立されたDirectorate of Inter-Services Intelligence(略称ISI。軍間情報局)と言う組織がある。陸海空三軍にまたがる軍の情報機関だ。1979年12月、アフガニスタンの国内治安混乱に伴い親ソの政府に加勢する形でソ連がアフガニスタンに攻め込んだが、これに対抗してアメリカはアフガニスタンの反政府勢力に武器、弾薬、資金の援助を実施する必要が出てきた。パキスタンの想定の敵その二がアフガニスタンであることを思い出してほしい。アフガニスタンを不安定化させる大義名分が立つちょうど良いチャンスだ。ISIは率先してこの計画に加担した。
この種の関与は化学や物理の実験のようにキチンと定量化された状況の中で、予測できる結果が出てくるような類のものではない。アメリカにとっても、おそらくISIにとっても、予想外であったことは、ソ連をたたき出してからアフガニスタンが急速にイスラム原理主義者によって支配される事態となり、そのイスラム原理主義者たちが結構しっかりと国を統治したことだと思う(しっかり国を統治したことと、統治が民主的であるかどうかは別だ)。そのイスラム原理主義者がソ連との戦いに勝った余勢をかって国境の外に活動の手を伸ばし始めることはある程度予想していたにしても、その手が伸びてくるスピードや範囲は予想外だったはずだ。
おそらくここまで来た時点でISIの関係者の間では、「事態が容易にコントロールできるものではなくなった」との認識とともに、「コントロールを誤ると国家の再度の分断のリスク」という認識が出てきたと思われる。軍人官僚である彼らの考えたコントロールとは、おそらくこれまでの政策である
* 「政府の統治の及ばない地域」の中での「自治」を認め、
* アフガニスタン内ではたえず低度の混乱が起きるように仕掛け
* これに反抗する部族に対してはアメとムチで臨む
の一層の遵守であろう。しかし、前述のとおりこのようなことはそんなにうまくコントロールできるものではない。むしろ現在はイスラム原理主義者の勢力が徐々に「パキスタン政府の統治が及んでいる」地域にまで及んできている、つまり徐々にパキスタンがfailed stateに向かい始めた状況と形容できよう。
何でパキスタン国内にアフガニスタンのイスラム原理主義者と呼応するような勢力が出てきたのだろうか?
パキスタンがイスラム共和国であることは前述した。1960年代に完成した新首都の名前がイスラマバード(イスラムの町)であることは象徴的だ。しかしもっと現実的な理由がある。
話を 1973年の石油危機までさかのぼろう。パキスタンは産油国ではない。石油危機で経済が苦境に陥った政府はパキスタンに豊富に存在する「人材」を中東産油国に働きに行かせ、同じイスラム教国である中東からの投資を呼び込むことに注力した。リヤルプールというパキスタンで三番目に大きな都市の名前をサウジアラビアのファイサル国王にちなんでファイサラバードと改名するなど涙ぐましい努力もした。この結果パキスタンは中東産油国からの投資を呼び込むことに成功したが、同時に中東版の、異物に対する許容度の低いイスラム教の文化が流れ込む結果ともなった。
特にパキスタン社会に大きな影響を与えたのは、中東の政府や有力者の資金で設立された多数のイスラム教の神学校だ。これら神学校が公教育の及んでいない地域の人々に読み書きを広めると同時に、中東版のイスラム教の教義も広めていった。神学校の多くはまさに政府の統治の及ばないFATAなどに設置されていったのである。
神学校を卒業しても仕事がなければ、どこからともなくお軍資金が出て武器と軍事訓練が与えられアフガニスタンに聖戦を戦いに行く道が開けていた。聖戦から帰った戦士はISIがその必要に応じてカシミールに派遣してインドのかく乱にあたらせた。こうして、国内で偏狭なイスラム教の教育を受けた若者を、中東の政府や個人やパキスタンの政府機関が手を貸す形で、武器を与え聖戦に赴く伝統が出来上がった。もうひとつ注目すべきは政府の統治の及ばないFATAやPATA地域における伝統的なgun culture(銃保有文化)の存在である。’80年代以降この二つが化合した。パキスタンは武装した不平分子が自己増殖する装置を手に入れてしまったのである。
パキスタンのfailed state化を止めるのは容易ではない。
まずは経済成長を通じて国民を貧困から解放することからはじめる必要がある。同時に教育を通じて今貧しい人々の間で流通している偏狭なイスラム教の教義の束縛から国民を解放する必要がある。しかし、綿や繊維製品や米以外これと言った輸出商品もなく、必ずしも企業活動のための環境が整っているとは言いがたい国がどうやって経済成長を成し遂げるのだろう?また教育を広げようとしても、イスラム教式の教育を継続することで利益を受ける厚い層がある社会状況の中でどうやってそれから離れた教育を展開できるのだろうか?
ここはパキスタンに広範な国民に支持された開明的な指導者が出現することを望みたいが、そこはfailed state、開明的な指導者には暗殺されるリスクがつきまとう。
国際社会は当面パキスタンのfailed state化が進まないよう祈るしかないのだろうか?
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