リーマンブラザース倒産一周年2009/09/19 17:46

9月15日は投資銀行Lehman Brothersリーマン・ブラザースの倒産一周年だった。さすがにたった一年前の、今回の金融危機の最も象徴的な出来事だけのことはある。第二次世界大戦開戦70周年は日本ではほとんど話題にならなかったが、海外のメディアはもちろん、サラリーマンの私が毎日読む日本経済新聞もリーマン倒産1周年のほうはアレコレ取上げている。本もあれこれ出揃った。

今回の金融危機について私の結論をまず書いておこう。

個々人のリスクに対する許容度の差があるにせよ、人間はリスクを好む動物だ。従い人間社会は絶えず過大なリスクを背負いこむ可能性を抱えている。従い金融危機は今後とも起こりうる。

しかし、危機の規模はコントロール可能だ。コントロールの手法には例えば今度のピッツバーグG20でEUが提案予定の高リスクの金融商品を扱う金融機関関係者の報酬の制限や、ごく最近英国のFinancial Services Authority(FSA。金融サービス機構)長官のターナー卿やフランスのクシュネル外務大臣が提唱している金融取引税の課税があると思う。しかしこれらはいわば対症療法で、根本的な対策ではない。

「根本的な対策」とは言うは易く実現が非常に困難な

1. 実体経済の数倍にまで拡大した金融商品市場の規模の縮小と、

2. つい最近フランス政府のCommission on the Measurement of Economic Performance and Social Progress(経済的な成果と社会発展の計測に関する調査会)が発表した報告が指向している、経済的な成果の評価に関する価値体系の変換

だと思う。

私の結論を述べたところでリーマン倒産1周年にちなんで私の見解をもう少し詳しく説明してみよう。

☆ 何故金融危機が起きたのか?

前述したように人間はリスクを追う性向のある動物だ。「生涯バクチをしたことがない」と言う人でも、「コレかアレか」と言う選択肢に向かった際、「これまでやっていたこととは違うが、コチラを試してみよう」と言う選択をした経験があるはずだ。うまくすれば今までやってきたことより大きな成果をあげられるという目論見に賭けるわけだ。試した結果の多くは失敗に終わるが、成功例の中から発展が生まれる。人間社会の発展はこの「ある可能性に賭ける」と言う行為なくしては考えられない。

ただ、そうやって追い求める「ある可能性」は本質的には「より安全な可能性」に比べ達成が困難で、それを追い求めることには非常なリスクを伴う。「ある可能性」が遠大な目標であればあるほどリスクも高い。今回の世界金融危機は金融機関が過大な利益を求めて過大なリスクを負った結果であるという定性的な説明自体は間違いない。

☆ 過大とはどれくらいのことをいうのか?

「何が過大か」という定量的な問題に対する解答は非常に困難だ。いろいろな計算はできるが、その計算自体ブラック・スワンの状況下ではまったく外れる[註 1]。後述する1998年のLTCM破綻の救済融資団に加わった米国の証券会社Merrill LynchメリルリンチがLTCM破綻処理後のアニュアル・レポートで

<mathematical risk models "may provide a greater sense of security than warranted; therefore, reliance on these models should be limited.”
[数学的なリスクモデルは]実態以上の安心感を与える可能性があるので、これらのモデルへの依存は限定的であるべきである>

と書いていたといわれるが、当時から、否それ以前から、冷静に考えればものごと計算どおりに行かないことは誰でもわかっていたのだ。我々は「どこに定量的な線を引くかということ自体一種のバクチなのだ」と言うことをまず理解しておかねばならない。

[註 1] レバノン人の元投資銀行家のニコラス・ナッシーム・ターレブ(現ニューヨーク大学教授)が、当事者の誰もが予想していなかったレバノン内戦(1975~1990)の開始と継続の経験をもとに「数学的な予測手法ではまったく予測不能な、それまでの常識が通用しないような事態はいつでも起こりうる」ということを説明するために書いた本の題名(原題 The Black Swan: The Impact of the Highly Improbable。初版2007年。邦題「ブラック・スワン―不確実性とリスクの本質」上下。邦訳初版は今年)。題名は18世紀にオーストラリアで黒鳥(black swan)が発見されるまで白鳥(swan)は白いものだと思われていたことにちなんでいる。

余談になるが、このメリルリンチが今回の金融危機で破綻し2009年1月付でBank of Americaに吸収されている。計算どおりに行かないことがわかっていても、計算された「実態以上の安心感」にすがってでもリスクを追求するのが人間の性なのだ。

☆ 現在の世界の金融システムが抱える問題とそのコントロールのための処方箋

バブル崩壊期の日本では「金融機関が破綻したのは財務体質にそぐわない放漫な貸付にあった」との前提で、貸付の見直しと金融機関の財務体質の強化が叫ばれた。貸付の見直しは「貸し渋り」を招き、その結果日本経済のデフレを招き、経済活動の縮小に伴いバランスシート不況を招来した(このあたりはリチャード・クー氏の分析に詳しい)。バランスシート不況は政府の財政支出増で切り抜けたが、日本政府のバランスシートにはGDPをはるかに超える多大の負債が計上されることとなった。

財務体質強化のほうは金融持株会社のもとでの大銀行の統合や銀行における多角的な金融サービスの提供、いわゆるメガバンク化の方向で解決が図られた。規模の経済と多角化による収益源の分散で収益を拡大しようとしたわけだ。

日本の金融行政及び金融機関がめざしたメガバンク化による収益の向上という方向は、その時代の定石にそったものだった。しかし今になってみるとメガバンク化が正解であったのかどうかには疑問が残る。

今回の世界的な金融恐慌の結果、欧米では多大の国民の税金を使って金融機関救済が行われたこと自体を問題視し「金融機関は、『破綻の際は国民の税金を使った救済の対象となる預金を預かりそれを融資にまわすだけのローリスクの公益事業的なもの』と、『破綻しても国民の税金を使った救済の対象にならないハイリスクなもの』とにキッチリ分けるべきだ」という議論が出ている。メガバンク化とは反対の方向だ。

私はこの欧米の論調の指向するものには原則的に賛成だ。銀行本来の機能である預金を集めて融資をする、とか送金手段を提供すると言う行為はなくてはならないサービスではあるが、電気を供給するとか電話サービスを提供するといった公益事業的なサービスのようなもので、日本で言えば経営のしっかりした信用金庫が、或いは往時の郵便局が、銀行よりも低いコストで十分提供できる、本来ローリスク・ローリターンのサービスだ。メガバンク化によってこれらの機能がおろそかになることのほうがよほど問題だ。

預けたり貸したりするだけの金融機関でも、預け金の運用に失敗したり貸付を無節操に拡げれば破綻する。この議論では公益事業的な金融機関は厳重な政府の管理下におくと言う前提とセットになっている。

問題は救済の対象とならない金融機関であっても、1998年9月に破綻した米国のヘッジファンドLTCMのように「規模が大きくなれば経済に影響するので政府が救いの手を伸ばさざるを得なくなる」(LTCMの場合はニューヨーク連邦銀行が融資団を組成して救済)」ことだ。非規制業種の金融機関の無節操な膨張は押さえねばならない。癌の膨張を押さえるには癌の栄養源を断たねばならない。この種の金融機関が活動する世界(=金融市場)のサイズを現実的なレベルにまで引き戻すことだ。

しかし、「実体経済と金融経済」と言ったところで、両者は密接に関連している。金融経済の作り出す利益が銀行のバランスシートを膨らませ、その膨らんだ資産が実体経済のほうに貸し出しで回っているからだ。従い、過大に膨らんだ金融経済の縮小は実体経済の縮小を伴うという覚悟が必要だ。

果たして現在の世界各国の政府当局はこの点で足並みをそろえられるのだろうか?

もう一つ大きな問題がある。「CAPMモデル」
http://mumbaikar.asablo.jp/blog/2009/05/06/4289018
で議論を始めた「過大な収益率の合理化」の問題だ(そういえば5月に書き始めた「CAPMモデル」を書き継ぐことを忘れていた)。我々はCAPMモデルと言うフィクションが示唆するような投資に対する見返り(リターン)、を所与のものとして受け容れ続けるべきなのだろうか?投資に対するリターンは、本来もっと低いものなのではなかろうか?このような過大な利益を追求する理論を駆使して経済を刺激し続けることが果たして「世のため人のため」になるのだろうか?この議論は、現代人のもつ経済的な発展指向に抵触するので更に国際的なコンセンサスを得るのが難しい。

☆ 経済以外の指標への期待

コンセンサスを得るための一つの解は、フランスのサルコジ大統領がノーベル経済学賞受賞者のスティグリッツ コロンビア大学教授やアマルティア・セン ハーバード大学教授を委員とするCommission on the Measurement of Economic Performance and Social Progress(経済的な成果と社会発展の計測に関する調査会)に諮問していたGDPに代わる発展に関する指標についての考え方をまとめた前述の報告(9/14発表)が示唆するものではないかと思う。

さすがにデカルトを生んだ国フランスの大統領。資本主義万能を説くアメリカに対し、異なる理論体系を構築して立ち向かおうとしている。

従来からGDPと言う指標では例えば市場外で提供される労働やサステナビリティーの概念が捨象されているとの批判はあった。このレポートではその批判を受け容れたうえで、

<the time is ripe for our measurement system to shift emphasis from measuring economic production to measuring people’s well being
我々の計量体系の重きを経済的な生産から人間の満足度へと移すべき時が来ている>

と問題提起し、

● 満足度を計るためには生産よりも所得や消費を見るべきだ

● 所得、消費、富の分配をもっと重視すべきだ

● 市場外で行われる人間の行動も所得の範疇でとらえるべきだ

と言った提言を行っている。フランスでは今後これらの要素を計量化し、通常の国民経済統計と同時に発表して行く由だ。イギリスやアメリカの論調をみると、このレポートの内容自体は評価するものの、その提案者がサルコジ大統領であるため、これを一種の政治パーフォーマンスだとする見方が多い。

確かに、このような指標を使えばフランスはアメリカに比べかなり高レベルの得点をし、サルコジ大統領の政治生命に資することになると言う部分はあるだろう。しかし我々の考えの方向を変えるためにさまざまな試行錯誤が行われ、それに伴って経済的に計れる生産以外の指標を使って自分の足元を見直してみる、或いはそれを通じて経済的な成果以外の部分にも価値観を移してゆくことによってのみ、金融経済の拡大の指向するものによるマインドコントロールから己が身を解放することができるのではないか。

覚えておこう。経済を尺度にして物事を考えるようになったのは、人類の長い歴史上たかだかここ200年くらいのことなのだということを。

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