インドとイギリス2009/09/10 23:28

経済史家の故吉岡昭彦東北大学教授の著書に「インドとイギリス」という1975年初版の岩波新書の本がある。氏が1973年のイギリス留学の途中に立ち寄ったインド旅行の印象をイギリスの印象と関連付けてコンパクトにまとめた本だ。

1973年のインドといえば外貨規制が厳しいし、経済は政府が厳重に規制しているし、インド人はチャンスを見つけてはどんどん国を去る、というような時代だ。一方イギリスはといえば経済が長期にわたって停滞し、年中ストライキが起きていつも国の機能の何かがストップし「くすんだ耐乏生活の国」という感じがする状態だった。

初版から30年以上たった今、改めてこの本を手に取り再読してみる。

<戦後30年、イギリスは、植民地帝国の負債を、「帝国主義の報復」によって弱められたみずからの力にのみ頼って、最終的に決済しなければならなくなっている。何人といえども、「歴史の審判」をまぬかれることはできない。イギリスは、「歴史の審判」に服して、みずからの歴史的営為と罪業を自覚しつつ、新しく生れ変わることができるであろうか。>

というおおげさな一文でこの本は終わるが、これに対して私が今回答を書くとすればこんな感じになると思う。

1970年代「沈み行く大国」と揶揄されたイギリスは、1979年~1990年まで首相を務めたマーガレット・サッチャーの一連の政策を契機として、付加価値のきわめて高い金融とサービスを核とした経済復興を遂げた。第二次世界大戦後一貫して長期低落傾向に歯止めがかからなかったイギリスが生まれ変わったのだ。

金融とサービスを中心としたイギリスの経済復興はイギリスだけに留まらず、隣国のアイルランドにも波及し、万年的な不況とそれに伴う人口流出に悩まされていた同国の経済をThe Celtic Tiger(ケルトの虎)と形容される高度経済成長に導いた。

イギリスの経済復興は元々イギリスが強かった文化発信力と結びつき、音楽、映画、演劇、小説といった文化面でもイギリスは花開いた。1997年から2007年まで首相を務めたトニー・ブレアはこの状況を愛国歌Rule Britannia(ルール・ブリタニア)をもじってCool Britannia(クール・ブリタニア)と形容した。

我々はこのイギリスの経済にしても、文化にしてもその発展の大きな担い手が旧植民地出身者であることに注目すべきだ。幾人か例を挙げれば、世界最大の製鉄会社ArcelorMittalの社長のラクシュミ・ミッタルはインド出身だし(ついでに言えば彼はマルワリだ。マルワリについての説明は http://mumbaikar.asablo.jp/blog/2009/08/29/4548042 )、「悪魔の詩」を始めとする一連の文学作品で世界各地の文学賞をとっているサルマン・ラシュディもインド出身だ。

文化面でいかにインドがイギリスと融合しているかを示す好例として、このブログを始めた頃に公開された映画「スラムドッグ$ミリオネア」
http://mumbaikar.asablo.jp/blog/2009/02/28/4144280
http://mumbaikar.asablo.jp/blog/2009/04/21/4258448
http://mumbaikar.asablo.jp/blog/2009/04/25/4265839
がある。イギリス人の監督がほぼ全面インドロケでおまけに台詞の相当部分がヒンディー語で製作した映画がイギリスのみならず世界的に大ヒットしたケースだ。「スラムドッグ$ミリオネア」ほど有名ではないが、日本でも公開されたサッカー好きなインド系移民の若い女性を扱った映画「ベッカムに恋して」(原題Bend it Like Beckham、監督はインド系のグリンダ・チャーダ)や、ミュージカルの巨匠ロイド・ウェバーが監督したヒットミュージカルBombay Dreamsや、もっと生活に近い部分で今やイギリスの国民食がフィッシュ・アンド・チップスと共にカリー・アンド・ライス(早い話がカレーライス)であることをあげられる。何しろロンドンにはインドの首都のデリーよりもインド料理店が多いと言う状態なのだから(もっともそのレストランのほとんどはバングラデシュ出身者の経営だが)。

1970年代初頭に吉岡が「『天国』自身のなかに、『地獄』から来た人間が入り込んだ」と形容したその「地獄から来た」インド人は節約を重ねながらも子弟の教育に投資し、そのような子弟の中から事業家や、作家や、弁護士や、会計士が輩出し、イギリスの産業の転換を担ったのだ。イギリスの復興は「みずからの力にのみ頼って」などというミミッチイ次元を超越し、各層の移民の力を動員したからこそ可能となったのだ。

他方、植民地的な遺制に縛られて低賃金構造にはまっていると吉岡が記したインドは、宗主国の言葉を繰れる特技を活かして英米を中心とした英語圏の国々にソフトウェア開発や、business process outsourcing(BPO、業務アウトソース)といわれる一連の事務処理サービスを提供する事業を興していった。現在インドのソフトウェア産業とBPO産業の売上は1320億米ドル、200万人以上の雇用を発生させ、500億米ドルの外貨を稼いでいる。国連統計によればインドの輸出は2007年に2552億ドルであったので、ソフト/BPO産業が雇用されている人の数に比していかにインド経済の大きな部分を占めているのかがよくわかる。

インドの元駐日大使と面談した際the best thing the British did was giving us English(イギリスがやったことで一番良かったことは我々に英語を遺してくれたことだ)といっていた。確かに、ITやBPO産業の発展に英語は必要条件であったと思う。しかし、世界にはパキスタンやスリランカやフィリピンや南アフリカのように英語ができて先進国より賃金が少ない国は存在する。インドのITやBPO産業が成長できた背景には、皮肉なことに多数の優秀なインド人が国外に散っていたので彼らの力を借りながら市場開拓ができたという側面や、最近喧伝されるインド人の数学的能力、そして新天地に貪欲に進出して行くインド人の進取の気性に依拠する部分も大きい。

もしインドがITやBPOに進出しなければインドは他の国と同一の地平で付加価値の低い製造業からより高い製造業への産業高度化の道を歩まねばならず、このように一足飛びで高付加価値産業の成長を起爆剤とすることで経済成長の軌跡を描くことはできなかっただろう。

吉岡がインドを訪問したときの人口は6億人。今インドの人口は10億人を超え、その内8億人が食うや食わずの生活を余儀なくされている(しかし最近は吉岡が書いたころほど街角で乞食や物売りにつきまとわれることはない)。いくらIT/BPO産業の波及効果で間接的に雇用が発生しているといっても200万人の数倍でしかなかろう。業界団体Nasscomの見立てでは間接的な雇用発生効果が800万人だという。この数字を採用したとしても食うや食わずの人口の1%弱。

「インド経済の今後の課題は付加価値が低くてもこの8億人に有意な雇用を提供できるだけの産業をどうやって生み出すのかにかかっている」と断じてこの文章を結びたいところだが、インドや中国のように10億クラスの人口のある国が、野放図に経済成長すれば世界の資源は干上がってしまうし、地球環境の温暖化は危機的なレベルまで進むことになるかもしれない。そのような中で、早くから高付加価値産業を発展させたインドは、ここから生まれる富の分配の問題に正面から取組むことができれば、存外、過度に製造業に依存することなく、環境にやさしい新興国の経済成長の一つのモデルとなる可能性があるのではなかろうか。

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