フォルクスワーゲン(VW)問題について考える2015/09/25 08:55

アメリカで発生したVWのディーゼル車排ガス規制回避問題。当初「退任はしない」と頑張っていた同社のヴィンターコーン社長は現地時間の9月23日ついに退任に追い込まれた。

VWが車のエンジンの動きをコントロールするマイコンのプログラムに手を加えアメリカのEPA環境庁のディーゼル車排ガス基準に合致するよう細工をしていたことが判明し、これがアメリカでのリコールは当然として全世界で販売されているVW車のリコールに発展しかねない事態となったからだ。

さて、ここで問題です。

なんで環境に対して厳しいと言われるドイツではなく、アメリカでこの問題が発覚したのでしょうか?

回答の一部は規制の決め方に関わる問題だ。

以下に専門家の目から見れば非常に乱暴に単純化された日米欧のディーゼル車排気ガス基準の表を示す。いずれも今年発売の新車から有効な基準値だ。

CO

THC

NOx

PM

Euro 6

0.5

-

0.08

0.005

EPA LEV

2.61

0.186

0.05

EPA ULEV

1.305

0.186

0.025

運輸省

0.63

0.024

0.08

0.005


アメリカEPA環境庁基準にLEVとULEV二つの基準があるが、LEVでも認められるが、より厳しいULEVレベルにパスした車は税制面での優遇措置が受けられるなどの恩典があるということだ。

つまりこの表を見るとVWはお膝元のEUの基準よりもゆるいアメリカの基準をミートできずに操作を行ったということになる。何故そんなことになった?

もう少し厳密な話をすると、アメリカにはEPAとは別にカリフォルニア州大気資源局California
Air Resources Board(頭文字をとってCARB)が独自に定めた排ガス規制値があり、こちらは以下のように一定の走行距離を走った車に課せられる内容だ。

走行距離

CO

NOx

< 80,000km

2.11

0.124

< 160,000km

2.61

0.186


車の性能は買ったばかりの時に比べ一旦は良くなっても長期的には落ちてくるので、その時点の排ガスのレベルを決めておくということは非常に現実的な基準の設定方法だ。ちなみに
CARB基準は11州で採用されており、11州の中にはニューヨークやペンシルバニアと言った人口の多い州もあるので、アメリカで自動車を販売しようと思ったら、この基準は避けて通れない。

自動車評論家の国沢光宏の見解では「VW開発の排気ガス浄化システムはアメリカの厳しい規制値をクリア出来る性能を持っていたけれど、どうやら耐久性に自信を持てなかったようだ。」ということだ。

ちなみに日本でディーゼル車で気をはいているマツダはヨーロッパやオーストラリアではディーゼル車を販売しているが、アメリカでは販売しておらず、これはそのためかもしれない。

回答のもう一部は「お受験モード」についてだ。

規制値をクリアできずに車載のマイコンを操作をしたというのはVWだけの問題かもしれないが、「お受験モード」は世界中の自動車メーカーがやっていることだ。

自動車が市場に出てくるまでには各国の定める様々な基準に合致する必要がある。

例えば自動車メーカーのカタログを見れば燃費がでているが、これは国の定める一定の基準に基づいて計測されたもので、このようにして計測した燃費を開示することが法律で決められているから、これがカタログに表記されている。多くの場合、国の定める基準に基づいて計測されたカタログ燃費は実際の走行状態で得られる燃費よりは大分良い数字だ。私が今年の年初まで持っていた第二世代のプリウスのカタログ燃費は国交省の10.15モード走行条件下で
35.5km/l だったが、実際走っていて高速道路で20~22 km/l 、都内の地道では10~12km/l だった。面白いことに昨年の夏に売却したMR-Sのカタログ燃費は国交省の10.15モード走行条件下で14km/l だったが、実際走っていて高速道路で15 km/l 程度、都内の地道では
10km/l 程度だったので、カタログ燃費に近いレベルで走っていたことになる。

国の定める燃費次第で税金が安くなったり、補助金がついたりして、販売に影響がでるから自動車メーカーはこの「国の基準」という受験に合致するよういろいろな工夫をする。

Financial Times紙のJohn Gapper副編集長によれば、自動車メーカーによっては空気抵抗を減らすため、車のドアや窓に目張りをしたり、タイヤの抵抗を下げるため特別硬いタイヤを履いて「受験」するようなこともあるようだ。

排ガス基準も当然お受験の対象だ。従い排ガス基準に合格しているからといって、車がいつも基準通りの排ガスを出して走っていると考えるべきではない。「お受験モード」で出ていたデータと実際車を運転する状況で現れるデータの間に誤差があることは自動車業界の常識なのだ。今回のVWの一件はこの誤差が大きかったという認識が必要だ。

ちなみに私がプリウスから買い換えたマツダのデミオはクリーンディーゼル車だが、走行
10,000km弱で既に排気管に黒いススの筋が現れており、今回のVWの一件を見ると「さてこの
黒い炭素の筋をどう考えたものか」という気持ちになる。

今回のVWの問題はアメリカの環境保護団体がVW車の実際の排ガスの計測値と、アメリカの環境基準で定める規制値の誤差について問題提起したことを契機として発覚したが、これは「世界的に『お受験モード』について関心が高まることの契機になった」という「日本の自動車メーカーにとっても決して人ごとではない問題が起きた」との認識を持って捉えるべきだろう。

更に大きな話をすれば、自動車業界が経済に占める比率が大きい日本とドイツはこの規制値と実際走行時の計測値の誤差の問題について、真剣に考えて「お受験モード」の自発的な改革にまで踏み込まないと、経済の根幹まで揺るがす事態になりかねないという認識を持つことが必要だ。

Paying it Forward(邦題 ペイ・フォワード 可能の王国) 追補2015/09/16 09:54

9月9日にこの題でヨーローッパに流れ込む難民について書いた。難民問題は決してヨーロッパだけの問題ではなく、日本も直面しうる問題であり、例えば朝鮮半島有事の際、

まがりなりにも難民を積極的に受け入れ、ペイ・フォワードして功徳を積むか、国内の治安に対する考慮を優先させて、難民船を押し返したり、韓国に「経済援助をちょっとするから、そちらで全員受け入れてほしい」という対応をするか?

世界の大勢が「先進国は多少の混乱があっても難民を受け入れる」方向に進んでいる状況下で、後者の対応をしたらまさに国の品格が問われることになることを十分認識して、今から心構えだけでもしておくことが必要だ。

と結んだ。

今朝のダイヤモンド・オンラインに元外務審議官(政策担当)の田中均が「欧州の難民・移民問題は日本にも他人事ではない」との題で、最近のヨーロッパの政治情勢と絡めて話を進め、私と同趣旨の

政治指導者が国民に対し、排外主義が国益には沿わないものであることを説得し、見識のある政策を実現していくことは、先進民主主義国共通の課題となっていると言えるのではないだろうか。

という結論で結んだ文を発表している。

安倍晋三首相の田中均に対する評価からいって、安倍政権がこの考えに耳を貸すことはほぼないと思われるが、そのような展開になると日本はまたpay forwardして功徳を積む機会を逃すことになるだろう。田中の論に興味のある方は以下のリンクで参照されたい。

http://diamond.jp/articles/-/78582

Paying it Forward(邦題 ペイ・フォワード 可能の王国)2015/09/09 15:02

「ペイ・フォワード 可能の王国」という2001年に日本で公開された映画を覚えておられるだろうか?主人公の少年が「もし自分の手で世界を変えたいと思ったら何をする?」という学校の宿題に対して「自分が受けた善意や思いやりを、その相手に返すのではなく、別の3人に渡す」という回答を出し、それを実践するプロセスを描いたものだ。[ここの記述は私の記憶を補足するためウィキペディアのエントリーに頼った。尚、ウィキペディアのリンクがうまく貼りつかないので、関心のある方はウィキペディアで「ペイ・フォワード」を検索してほしい]

主人公は校内暴力で殺されてしまうが、彼の実践した善行の輪は彼の知らないうちにどんどん広がって行く、という希望をもたせる形で映画は終る。

この夏クローズアップされた地中海を渡海する難民の流れが、前線のイタリアやギリシャから、英仏海峡をまたぐ鉄路がひかれているChannel Tunnel(海峡トンネル)のフランス側やギリシャと地続きのマケドニア、そのマケドニアから鉄路や道路を伝ってセルビア、ハンガリー、オーストリー、ドイツ、そしてさらに北のデンマークやスウェーデンに流れ込んでいる。まだ自国の経済が成長期にある東欧諸国は難民の受け入れに消極的で、イギリスを除く西欧諸国はおおむね難民受け入れに対して前向きな姿勢を示している。

この夏ギリシャやイタリアに到着(というか漂着に近い)した難民をインタービューするテレビやインターネットの映像を見ていて、気がついたことはそれなりに身なりの良い英語の上手な難民が多かったことだ。国外脱出を手伝う密航組織にそれなりにお金を積むだけの財力のある人たちがヨーロッパ本土にたどり着いているということだろう。シリアやリビアの、教育を受けたそれなりに裕福な層が、全てを捨てて命からがら渡海してきているのだ。ここまでシリアやリビアの国内状況が悪化しているのだ。

そしてここ数日の映像。決して裕福とは思えないドイツ人やオーストリー人のボランティアが自分の車でハンガリーまで出かけて行き(映っているクルマにBMWやベンツがなかった!)、オーストリーとの国境でひっかかっている難民を乗せてドイツまで運んだり、ミュンヘン中央駅に到着する難民を乗せた列車を市民のボランティアが待ち受けていて、水や食料や衣料を配り、政府は政府で難民の受け入れ体制を急遽整備している。このドイツ政府や国民の対応に対しては世界から賞賛の声が寄せられている。まさにペイ・フォワードの状態だ。ドイツに対する評価はここ数日で急上昇している。

メルケル首相によればドイツには今年80万人の難民が到着することになるだろうという。ドイツの人口は約8000万人なので、なんと人口の1%だ。年内に100万人に到達するという予測もある。欧州委員会はEUとしての今年の難民受け入れ枠を16万人にすることを検討しているが、到底そのような数ではまかないきれないくらいの難民がヨーロッパに押し寄せているのだ。

しかし、例えば受入枠が4,600人のルーマニアや1,600人のブルガリアに割り当てられた難民がそのままルーマニアやブルガリアに留まるだろうか?難民は別に生活保護を受けるためにヨーロッパにわたってきているのではない。自分の国でそれなりに生活ができていた人たちが身の危険を感じて脱出してきているのだ。一時の生活保護は必要としても、なるべく早く以前の生活のレベルに戻るため彼らはあらゆる努力をするだろう。それには経済的に成功する機会が多そうなところに行くのがてっとり早い。だから彼らはドイツやイギリスに向かおうとするのだ。

そのドイツの国民の考えだが、今年2月の調査では国民の71%がEU外からの移民受け入れに対して否定的だった。ただ、移民と難民は違う。4/25にドイツの公共放送ARDが行った調査によれば国民の50%がもっと難民を受け入れることに賛成で
44%が反対だった。難民受け入れについてのドイツの国論は割れている。

自発的に難民ピックアップのためハンガリーまで自分の車を飛ばして行ったり、ミュンヘン駅で難民の乗った列車を出迎えた善意の人たちがいる反面、難民の収容施設に対する放火などをする輩が出始めている。ドイツでは2012年から通算12の難民収容施設が放火にあっており、そのペースは増えている。せっかくペイ・フォワードしても、これでは積んだ功徳が消されてしまう。

冷静に考えてみよう。恐らくヨーロッパでは今後一時の熱がさめる現象が起き、難民を受け入れようという動きがだんだん沈静化してきて、政府も到着した人々の難民認定をヨリ厳重にする方向で動くだろう。しかしシリアやイラクの周辺国には数百万人の難民が生活している。彼らは密航業者に多額の金を払えない人々だと考えてよいが、彼らの一部もまた機会を見てヨーロッパへの脱出を考えるだろうと見るべきだ。
このようにしてみると、現在ヨーロッパに押し寄せている難民の波は一時的なものと考えるべきではない。中東情勢の混乱が継続する限り難民の流れが留まることはないと考えたほうが良い。そのような状況下でヨーロッパは紆余曲折を経ながらも、徐々に中東系を中心とする新難民をその社会に受け入れた新たな社会の均衡を模索せざるを得ないだろう。

さて、これを日本に置き換えて考えてみよう。北朝鮮の金正恩政権に対して例えば強力な反政府運動がおきたらどうなるだろう?無論その結果北朝鮮国内は大混乱になり、多数の難民が中国と韓国に向かうことになるだろう。しかし一部の難民が日本海に船を出し日本に向かうことは十分予想される。日本の領海に難民船団が迫ってきたら海上保安庁の巡視船はどう動くのか?或いは中国が大半の難民の受け入れを拒否したり、韓国が一部の難民受け入れの肩代わりを日本に依頼してきたら?この時まがりなりにも難民を積極的に受け入れ、ペイ・フォワードして功徳を積むか、国内の治安に対する考慮を優先させて、難民船を押し返したり、韓国に「経済援助をちょっとするから、そちらで全員受け入れてほしい」という対応をするか? 

世界の大勢が「先進国は多少の混乱があっても難民を受け入れる」方向に進んでいる状況下で、後者の対応をしたらまさに国の品格が問われることになることを十分認識して、今から心構えだけでもしておくことが必要だ。

安倍談話2015/08/15 09:09

懸案になっていた戦後70年にあたって安倍首相が発表すると言っていた「安倍談話」が8月14日に発表された。

「一応合格点の内容」ということになっているが、1,304字だった村山談話に比べ、本文が3,433字と実に2.6倍の長さだ。これは安倍談話が長い歴史認識の説明を伴っている理由もあるが、談話の内容に甲論乙駁のような部分があるからでもある。その結果、論旨がぼやけている。長くなったりぼやけたりした理由は、文案の構想を様々な論者を集めた「21世紀構想懇談会」に丸投げし、出来上がった文案を安倍の思いも加えて内閣府の官僚がひねり回した結果なのだろう。

典型的な例が、安倍個人が力点をおいたとされる「日本では、戦後生まれの世代が、今や、人口の八割を超えています。あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません。」の部分。その直後にとってつけたようにおかれている「しかし、それでもなお、私たち日本人は、世代を超えて、過去の歴史に真正面から向き合わなければなりません。謙虚な気持ちで、過去を受け継ぎ、未来へと引き渡す責任があります。」という文は優秀な官僚の手になる「調整」の結果ではなかろうか。

「謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」の部分は既に指摘したように「何をやっても当面中韓朝三国の国内事情がある限り謝罪要求がなくなることはない」と割り切るべきだろうと思う一方、本気で「謝罪を続ける宿命を背負わせ」たくないのなら、国際世論に「日本はあれだけやっているのにまだ第二次世界大戦前戦中のことについて言われるのはおかしい」と思われるような「倫理的な高み」moral high groundに、日本をたたせる必要がある。この過程で国内の一部の異論を排する必要が出るかもしれないが、その覚悟を持ち行動をすることが必要だ。

問題はなかなかこの高みに登りきれないことだ。つまり覚悟と行動がとれないことだ。登り切れない理由を手っ取り早く言えば次の二つの日本の国内事情に集約される。ひとつは安倍の足元の自民党の議員の中に、それも有力議員の中に、村山談話にしても安倍談話にしても、そこで示される歴史認識に公然と疑義を唱える者がいること、そしてもうひとつは戦没者及びいわゆるA級戦犯追悼に関わる靖国神社の位置づけの問題に対し未だに明快な処置を行えていないことだ。

ちなみにこの二つの問題は自民党だけの問題ではなく、民主党を始めとする一部野党にも存在しているが、政権党である自民党の責任は重い。

また、安倍には申し訳ないが「我が国は、自由、民主主義、人権といった基本的価値を揺るぎないものとして堅持し」と言われても何となく「これは彼のホンネかなぁ」という気持ちにさせられ、つまりは論旨に対する疑念が想起されることも、論旨をぼやけさせる結果になっている。これは彼のこれまでの言動や彼の周辺に集う人々からうかがえるもののなせるわざだ。このあたりも彼がどう対処するのか次第で安倍談話が単なる美辞麗句なのか、安倍の本心なのかが測られることになる。

そこまでの覚悟を持ってこの談話を発表したのだろうか?「談話を発表する」と言ってから「しまった」と思っているのではなかろうか?安倍にはそのような疑念を払拭させるような行動を通じ、ぜひ前者であることを示してもらいたい。

終戦記念日を迎えるにあたり: テレビ番組「刑事フォイル」(原題Foyle's War)2015/08/14 16:41

ケーブルテレビにミステリーチャンネル別名AXNミステリーという自称日本唯一のミステリー専門チャンネルがある。「刑事コロンボ」のデジタルリマスター版をはじめ内外のミステリー番組を放映しているチャンネルだ。今話題のBBC(英国放送協会)製作のシャーロック・ホームズの現代版Sherlock(邦題「シャーロック」)も日本ではこのチャンネルで初めて放映された。私が最近はまっているのがこのチャンネルで放映されている英国の民間放送会社ITVが制作した標題の番組だ。

第二次世界大戦中のイギリス南岸の小都市Hastingsヘースティングスの田舎刑事フォイル[1]が戦時下に遭遇するさまざまな刑事事件に、可能な限り自己の良心に従って対処してゆくというのが大雑把な設定だ。戦時下で人員を減らされている警察組織の中でフォイルは、ノルウェーで片足を失う戦傷を負って復員し警察に復職した部下のMilnerミルナー刑事と二人で直接事件を追う[2]。原題のFoyle's War「フォイルの戦い」の意図するところは、フォイルが犯罪捜査の過程で遭遇する「戦時下」という制限に対する彼の良心に基づく戦いがこの番組の中心テーマだからだ。この番組のひとつのポイントは実際に起きた事件を題材にストーリーが構成されているという点で、これが単なるフィクションに基づくストーリーよりもはるかに深みというか重みをこの番組に与えていると思う。

2002年に放映開始したこの番組、本国では好評のため戦中編に続き戦後編が放映されており、フォイルが戦後の混乱期を経て冷戦期にMI5に転籍し国内の防諜活動に従事し、戦時中のように一見黒白がもっとはっきりしていた時代とは異なる新たな時代におけるフォイルの戦いが放映されている。英国では本年1月に最新エピソードが放映され、日本ではミステリーチャンネルで戦後編の放映が開始された。

私がこの番組を見ていて思うのは「同じ第二次世界大戦下の日本とどう違うのだろうか?」という点と「舞台が日本だったらどういうストーリーが構成できたのだろうか?」という点だ。

フォイルが追求した、物資の横流しや、消防団の火事場泥棒、兵士と駐屯地の娘の交流の結果、在留外国人によるスパイ行為、その反面としての在留外国人に対する不当な差別、といった問題やそれに類する事案は当然日本にもあったはずだ。物資の横流しについては戦時下のイギリスでは重労働刑が課せられ、火事場泥棒を行った消防団員は自動的に死刑が確定していた。日本の警察が検挙した闇屋はどういう処置を受けたのだろう?

番組では戦時下の英国には反ユダヤ主義で親ナチの人々がおり、彼等が非公式にではあるが集うことが可能であったとか、思想としての反戦主義が認められており、主義に基づく徴兵忌避が違法ではなかったとか、「日本はこうではなかったんだろうなぁ」と思わせるエピソードも紹介されている。

戦時下の日本の警察といえば、闇物資関連の捜査、思想犯やスパイなどの検挙などのような戦時体制の維持、つまりは「市民生活の統制」の部分はすぐ思い浮かぶが、例えば産業戦士ともてはやされる軍需工場の工員が女子挺身隊員を暴行したとか(尾崎士郎の「人生劇場」にチラッとこの話が出てくる)、羅災した建物や住宅からの火事場泥棒もあったはずだ。このような刑事事件にはどのように対処していたのだろう?

このエントリーを書こうとあれこれ戦時中の日本における刑事事件をインターネット上で探していたら、通称「ひかりごけ事件」に行き当たった。

厳冬の知床半島で難破した陸軍が徴用した漁船の船員が海岸に漂着して番屋にたどり着いたが、先に死亡した船員の肉を食べて命をつないだ当時29歳の船長が死体損壊罪で釧路地検に告発され釧路地裁で懲役1年の判決が言い渡された事件だ[3]。船長の生存が確認された当初、船長は「不死身の神兵」ともてはやされるが、やがて番屋の近辺にりんご箱に詰められた人骨が発見されるに及び、当局は不都合な事実を覆い隠すため報道管制や、裁判の非公開を決める。この事件は武田泰淳の小説「ひかりごけ」の題材となった [4]。

この一件を見る限り戦時中も日本の司法制度はそれなりに機能していたという印象を受ける。例えば場所や状況を多少加工したうえで「事件を非公開にして葬ろうとする軍部や検察のトップに対し、現場の刑事の日常を知る市民を通じ統制の網目を抜けて話が漏れ始め、当局者が地団駄を踏む」という形に話を組み立てれば立派に日本版の「刑事フォイル」になるのではなかろうか。8月15日の日本にとっての第二次世界大戦敗戦の日を迎えるにあたり、日本のテレビ局にはいたずらにバラエティー番組の製作に精を出すのではなく、自分の歴史をこのように角度を変えた形で見つめなおすような番組の制作を期待したい。


註解

[1] 田舎刑事というとちょっと語弊がある。フォイルの職制はDetective Chief Superintendent(日本の警察の職制で言うと警視正、つまり署長あたり)で上司はロンドンにいるAssistant Commissioner(日本の警察の職制で言うと警視長、つまり本部長)だ。

[2] ミルナー刑事は戦時中のエピソードではSergentと呼ばれていたので、日本の職制で言うと巡査部長あたりだ。

[3] http://www.kensatsu.go.jp/kakuchou/kushiro/oshirase/18411200610100/16_syoukai_konnjaku05.html

[4] 極限時に人肉を食するという事態は大岡昇平「野火」を待つまでもなく、劣勢、総崩れに陥った日本軍では横行していた。また九州帝国大学では1945年に捕虜の生体解剖をこなっており、解剖後の体の人肉試食を行った可能性があり、これが遠藤周作の「海と毒薬」の題材となっている。

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