「戦火のナージャ」「ミスター・ノーバディ」「ブルーバレンタイン」2011/05/11 21:43

連休の間、立て続けに3本映画を見たのでその印象をざっと書いてみたい。

最初に見たのが「戦火のナージャ」(制作2011年。4月16日に封切った日本は何と5月5日に封切った制作国のロシアより早い封切だった!やればできるんだ。原題
Утомленные солнцем 2: Цитадель、「太陽に灼かれて 2:要塞」の意)

原題からわかるように映画は1994年に製作された「太陽に灼かれて」(本邦上映は2001年?)の続編だ。監督のニキータ・ミハルコフはソ連国歌及び現在のロシア国歌の作詞をした詩人セルゲイ・ミハルコフの息子という芸術家の家系生まれのロシアのインテリゲンチャ(知識層)の一員だ。

学生時代には今より頻繁にソ連映画が上映されていたから、何度かソ連映画を見た。ほとんどがロシアの文学作品を映画化したものか、第二次世界大戦の独ソ戦の一局面を描いたもので、ゆっくりしたペースで物語が展開するのが印象的だった。いずれも見た後は内容の是非にかかわらず「映画を見たぁ」というズッシリ感があった。この映画もその「昔懐かしいソ連映画風の映画だろう」と思って見に行ったら予想通りだった。「恐らくアメリカ映画なら2/3以下の長さで同じストーリーを語っていたのだろう」と言う感じだ。

映画の内容などについてはMovie Walkerをはじめあちこちに出ているのでここには書かない。私が印象的だったのは、特権階級といえどもスターリンの恣意でその身分がどうにでもなったスターリン時代のソ連に生きる人々の緊張や諦観の描き方だ。そのような時代の状況やその中で生活する人々の心理を、隠喩を用いずに描くことができるロシアは、政治や思想の解放については中国より数歩先を行っていることがこんなことからも実感できる。

次に見に行ったのはSF映画だと言う理由で見に行った「ミスター・ノーバディ」(2009年制作。原題も同じMr Nobody)

ストーリー展開ははなはだ複雑で、余り論理的に筋を追いかけるとワケが分からなくなる。要は人生いろいろな分岐点があって、どの分岐点でどのような選択をするかで人生の展開が大きく変わる、というストーリーだ。印象的だったのは幼いころの主人公と恋仲になり、ある展開ではその関係が長い間の空白を経て再会を果たし関係が復活すると言う設定の中の配役が「実際の人物がそのまま年を経ればこのようになろう」というくらい適切だったことだ。「戦火のナージャ」では主人公二人(両者の関係は父娘)が実生活でも父娘で、そのため前作の「太陽に灼かれて」を見た人は自然に続編であるこの映画を見ることができるようになっている。このような配役を行った一因は、或いはロシアの映画俳優層が薄いことが理由ではなかったかと思われるが、ドイツ、フランス、ベルギー、カナダ四カ国の共同制作になる「ミスター・ノーバディ」ではそのような懸念は必要なかったろう。

最後に「ブルーバレンタイン」(2010年制作。原題も同じBlue Valentine)を見た

簡単に言ってしまえば「結婚前と結婚後4、5年の夫婦の愛と、二人の間の落差が集積していった結果の別れ」がテーマの映画だ。結婚に至るプロセスや結婚後の二人の生活を丹念に描くことで、そもそも結婚前から二人の間には落差があったこと、しかし女性のほうはそのときのボーイフレンドとの関係に辟易しており、成り行きで「できちゃった」その彼女を包みこんでくれた男性の温かさのなかで、二人の間の落差をみる客観性を失い結婚に進んだ行ったことを浮かび上がらせる。

結婚後数年。男性の側は倦怠を感じつつも今の生活に満足している。二人の間の子供も愛している。妻があれこれ愚痴を言っても彼女と言い争うのではなく「自分がどうなればよいのか教えてくれ」と妻に質す、要するに夫として格別の失点のない存在だ。しかし「医師になろう」との夢を捨て、結婚し、子供を産み、田舎の病院で看護婦になっている女性は結婚後数年たった今、結婚前には見えていなかった相手との落差がみえている。彼女はその落差を実感しながら鬱々として過ごすような毎日が不満だ。テーマは簡単だがこのあたりのディテールの描き方が細かい。そしてそれを「戦火のナージャ」より手短に要領よくまとめている。ディテールの点で難を言えば、「今」の女性が「以前」と余り変わっておらず、「今」の男性のみ老けた感じだったのが気になったことくらいだろうか。

見終わってからその昔見た映画「ミセス・ダウト」(制作1993年。原題はほとんど同じMrs
Doubtfire)を思い出した。ミセス・ダウトの主人公も自分の家庭を愛する、格別の失点のない、否自分の家庭以外を顧みないという失点のある男性だが、それに飽き足らない妻に離婚される。離婚調停の結果子供は妻に持って行かれてしまったので、毎日子供に会おうと女装して家政婦として昔の家に住み込む。喜劇仕立てになっていたがテーマは結構きつかった。

アメリカの小説や映画にはこのような、女性のモヤモヤした不満にどうやって付き合うのか戸惑ったり翻弄されたりする男性をテーマにしたものが結構多い。映画や小説だけのことではない。現実の世界でも「客観的に言ってこの夫婦、相手に何の不満があって離婚したのだろう」と思わせる事例に事欠かない。「夫婦の関係はいつまでも愛だ、夢だではなく、いかにお互いの現実にあわせてもたせるのかだ」という感覚は、アメリカ人の夫婦の多くも持っている感覚なのだろうに…だ。

しかし冷静に見てみよう。アメリカの結婚の半数以上が離婚に終ることからも明らかなように、アメリカ人の多くはいつまでも「愛だ、夢だ」の男女関係を求め続け、結婚生活でそれが感じられなくなると残りの家族のことは顧みず、一路別離に向かうという直線的な感覚を持っている。「ミセス・ダウト」にしても「ブルーバレンタイン」にしても、アメリカ人のもつこのように一途な側面をえがいた作品なのだ。「ブルーバレンタイン」を見てから一週間くらいたった今そんな事を思っている。「やりきれない後味を残しつつも今になってもいろいろ考えさせられている分、ゴールデンウィーク中に見た映画の中では『ブルーバレンタイン』が一番の秀作であった」ということになろうか。

クリケットの世界2010/08/10 21:19

「世界でもっともポピュラーなスポーツ」といえば誰しもが「サッカー」というだろう。蛇足になるが「サッカー」はアメリカ語だ。アメリカ国外でアメリカン・フットボールとよばれるゲームのことをアメリカでは単に「フットボール」といい、これと識別するために本場ヨーロッパや南米でフットボールとよばれるゲームのことをアメリカでは「サッカー」という。どうして日本でアメリカ式の呼称が定着しているのかは謎だ。

「それではサッカーに次いでポピュラーなスポーツは?」と問われれば、多少考えの深い日本人は「ラグビー」というだろう。ラグビーがポピュラーなヨーロッパや中南米の一部でも同じような反応だと思う。

そのようなラグビー派の人々には「エッ?」かもしれないが、世界でサッカーの次にポピュラーなスポーツは日本でおよそなじみのないクリケットだ。

北イングランドBamburghバンバラの草クリケット風景

考えてみよう。ラグビーがポピュラーな国としては旧英領諸国(ただし南アジアではかなりマイナーなので除南アジア諸国)、ヨーロッパ、中南米の一部、多少おまけして日本というところだが、クリケットがポピュラーな国は旧英領諸国全般だ。この旧英領諸国全般というくくり方に注目してほしい。人口が15億を超えるインド、パキスタン、バングラデシュ、スリランカの4カ国ではクリケットは昔日の日本の野球以上の人気も持つ国技だ。「15億人とヨーロッパ、中南米の一部、の人口のどちらが多いか?」といえば答は自明だろう。

野球同様投球されたボールをバットで打つゲームのクリケットだが、本来のクリケットは勝敗が決定するまで数日を要する、およそセッカチな人向きではないゲームだ。多少イギリスのことを知っている人が「クリケット」といわれてイメージする「白いユニフォームを着たチームが緑の芝生の上でのんびりボールを投げたり打ったりするゲーム」はこのあたりから来ていると思う。おそらくこれが日本やアメリカでクリケットがポピュラーにならなかった最大の理由だろう。後述するTwenty20がもっと早く開発されていれば或いは日米もクリケットを国民的球技とする国になっていたかもしれない。

クリケットのルールの詳細は日本版Wikipediaにも記載があるのでそれを参照願いたいが、私なりの独断を加えて簡単に解説すると以下のようになる:

1チームの選手の数は11名。球場の中央にはWicketウィケットという三本の木の丸棒を地面に刺したゲートが二つ、22ヤード(20.12m)の間隔で立っている。丸棒は三本で高さ28インチ(71cm)幅9インチ(23cm)になるようセットされており、三本の丸棒の頂上にはbailベイルという木の丸棒がのっている。各ウィケットの前にはバッターが各1名立つ。

バッターの役割はウィケットを崩すことを狙って投手から投球されるボールからウィケットを守ることだ。ウィケットが崩されればバッターはアウトとなり次の打者と交代する。

ウィケットを守る最良の方法は投球を打ち返すこと。フィールド外縁部の観客席の内側に置かれたboundaryバウンダリーという縄を、野球のホームランのようにノーバウンドでボールが越えれば6点。ゴロでもボールがバウンダリーまで守備側に捕球されずに届けば4点。それ以外の場合は打球が守備側に捕球されbailが落とされる危険が及ぶまでの間二人のバッターは二つのウィケットの間を往復する。一方のバッターが出発したウィケットから反対側のウィケットに到達すると1点になる。

ピッチャーの投球でウィケットが倒されれば、或いは捕手が自チームからの投球やバッターからの打球を捕球してベイルを落とせば、或いはフライになった打球を守備側のチームの選手が捉えれば、バッターはアウトになって次の打者と交代する。

ピッチャーの投球数が所定の投球数に到達した時点で攻守交代となる。クリケットが長丁場になるのは投手による投球の総数が制限されているワールド・カップ試合でも投球数が300回もあり、一方のチームの投球が終わって得点が決まると、今度は相手方がまた最大300回投球して得点を積み重ね、その結果を競うため、試合が1日とか場合によっては2日がかりになるためだ。他のスポーツのように短い時間でまとまりがよく収まる試合展開ができるよう2003年に開発されたのがTwenty20という投球総数が20回に制限された形のクリケットだ。Twenty20の場合3時間程度で試合は終了となる。Twenty20の商業化がもっとも成功しているのがインドだ。

インドにはIndian Premier League (IPL)という8つ(来シーズンからは2チーム増える予定)のインドの都市名を冠したチームがTwenty20クリケットを競うリーグがある。IPLのチームを組成するにはBoard of Control for Cricket in India (BCCI、インド・クリケット管理委員会)が主催する入札に参加してフランチャイズを獲得する必要がある。IPLの選手は世界各国から集められている(ただし現在パキスタン出身の選手は在籍していない)。ウィキペディア英文版のIndian Premier Leagueの記事によれば直近のフランチャイズは3.333億米ドルで落札されたとのことだ。ちなみにアメリカの経済誌フォーブスによればメジャーリーグ・ベースボールの平均フランチャイズ価格が2009年に4.91億米ドルだったとのことなので、IPLが日本のプロ野球をはるかに超える興行的に成功した集金マシンとなっていることがわかる。

インドのことを多少ご存知の方ならこのあたりで「そんなにお金が動くならIPLに関してはヤミ金など、さまざまな噂が存在するのではないか?」と思われるだろう。残念なことにこれは噂のみならず事実も結構明るみに出ている。

代表的なのが今年4月にクリーンなイメージでインド政界の若手ホープとされたShasi Tharoorシャシ・タルール外務担当大臣が、女友達(許婚だともいわれる)が関与する南インドのケーララ州コチ市のIPLフランチャイズ獲得に関与したことが明らかになり、政界を追われたニュースだ。インターネット時代らしく、この話に足がついたのはIPLをまとめ上げてコミッショナーの座に着いた
Lalit Modi ラリット・モディのツイッター上での「つぶやき」の結果だ。モディはアメリカ留学中に刑事訴追を受けたとか、3つのIPLチームに出資しておりIPLは彼の一つの事業として理解したほうがよいとか、それだけでブログの記事が一本かけるほど話題の多い人物だが、ここでは彼がこの「つぶやき」が原因でIPLコミッショナーの座を追われた事実だけ記しておこう。

こんなにお金が集まるとほどインド亜大陸地域におけるクリケット熱は強い。もう一つ例を上げよう。

2001年に上映されたインド映画Lagaan (「年貢」の意。日本ではDVDのみソニーから「ラガーン」という題名で2003年に発売)は2002年のアカデミー賞外国映画部門候補作になった映画だ。

村人打席に立つ

ストーリーは

旱魃に苦しむインド中部の村で、その地の行政をつかさどる英国人の施政官と村の若者の間で「村のチームがイギリス人チームにクリケットの試合で勝ったら年貢を3年間免除する。ただし村のチームが負けたら年貢は3倍だ」という賭けが行なわれ、クリケットのことなど一切知らなかった村人のチームが、主人公の村人の青年に恋心をいだくようになる施政官の妹の助けもあってクリケットの腕をあげイギリス人チームをクリケットの試合で打ち負かす、

というものだ。映画の後半はこの村人チーム対イギリス人チームのクリケットの試合の一進一退に費やされ、投打の駆け引きなどクリケットのことを知らないものでも手に汗を握る試合展開が連続し、自然とクリケットのことがある程度わかるようになるし、クリケットが、決してのんびりとしたゲームでないこともわかる。インドにおけるクリケットの人気を反映して、Lagaanはインド国内で興行的に大成功を収めたが、インド国外でも相当の成功を収め最終的には4億ルピー(約8億円)の興行収入を上げている。

ネタバレ承知で書けばLagaan のクリケットの試合では、後攻となった村人チームの中心の若者がホームランを打ち、英国人の施政官がそれをバウンダリーの外で捕球したため(野球で言うと守備側の選手が観客席でホームランを捕球したようなこと)村人側に6点が入り、村人側が僅差で英国人チームに競り勝って映画がエンディングになだれこむ。もっとも映画に出演していたイギリス人の俳優クリス・イングランドの書いた製作参加記Balham to Bollywood (バラムからボリウッドへ)を読むと、映画製作中の英印スタッフどうしの親善試合ではいつもイギリス側が勝っていた由だ。

南アジアとクリケットにちなんで話題をもうひとつ。

Muthia Muralitheranムッティア・ムラリテラン選手はスリランカのみならず世界のクリケット界を代表するクリケットの投手で、本年7月22日に史上最多となる800人の打者を打ち取るという偉業を達成して引退した。800番目に打ち取ったのはスリランカ対インド戦で打者となったインドの選手で、この選手の上げたフライをスリランカ側の選手が捕球することで達成された。

ムラリテラン選手は祖父の代にインドからスリランカに移住したタミル人で、かつ彼の在籍中はスリランカのナショナルチームのなかでは唯一のタミル人だった(スリランカの民族構成については「スリランカのこれから」
http://mumbaikar.asablo.jp/blog/2009/04/22/4259902
ご参照)。このような出自にもかかわらずスリランカのナショナル・クリケット・チームの重要な構成員として活躍し、チームメンバーからもスリランカの国民からも熱い声援と期待を受けたムラリテラン選手のような存在が増えてゆけばスリランカの民族融和も進むことだろう。

サッカーがもはやイギリスのスポーツではないように、クリケットはもはやイギリスのスポーツではない。「世界で二番目にポピュラーなスポーツ」だけあって、International Cricket Council (ICC) 国際クリケット連盟が2009年にアメリカのプロスポーツにならって発表したICC Cricket Hall of
Fameのメンバーを出身国別に見ると、イングランド22名、西インド諸島13名、オーストラリア11名、インド、パキスタン各3名、南アフリカ2名、ニュージーランド1名 だ。野球のHall of Fameはアメリカのメジャーリーグの元選手に限定されているのと対照的な構成だ。このあたりその圧倒的な存在感によって国際試合開催についても強力な影響力を行使する米国メジャーリーグの意向に左右される野球と、世界各国で展開するローカルな試合をナショナルチーム間の戦いという形に昇華させながら発展してきたクリケットの差を感じる。

私の名前はカーン(My Name is Khan)2010/06/02 21:27

中国とインド(1/2)
http://mumbaikar.asablo.jp/blog/2009/10/09/4621240
インドの神々、インドのお酒
http://mumbaikar.asablo.jp/blog/2009/10/21/4645651
で紹介したインド人の友人夫妻に、インドで発行されている本を買って送ってくれるよう依頼したところ、本と一緒に「やっとDVDがでたから」とこの映画のDVDが一緒に送られてきた。

本年前半のインド映画の大ヒット作といえばこの映画で間違いはないだろう。2/10に封切られてから4/4までの2ヶ月弱でのインド国内での映画館売上が7.3億ルピー(約15.4億円)、世界全体の売上がそのほぼ倍の3600万米ドル(約33.9億円)とインド映画としての海外興行実績を塗り替え中だ。主演はインドのトップ映画スターのShah Rukh Khan シャー・ルク・カーン、共演は9年前の大ヒット作Kabi Kushi Kabi Gham (ヒンディー語で「時には楽しく時には悲しく」の意。「家族の四季」という邦題がついて日本でも数年前に上映されている)で彼と共演したベテラン女優の
Kajol カジョル、のこの映画のストーリーを多少のネタバレ承知で紹介すると以下のような感じになる。

Rizwan Khan リズワン・カーン(回教徒)はムンバイの市営バス局に勤める修理工の息子だ。アスペルガー症候群のリズワンは音や色彩の黄色には過剰に反応するが、機械の修理には才能を発揮する。成績優秀なリズワンの弟Zakir ザキールは、奇行の目立つ兄を何かと母がかばうのが不満だ。ザキールはやがて奨学金をもらってアメリカの大学に進学、サンフランシスコでインドのハーブを使った化粧品事業を起業して成功を収め、母の没後(父は早世)兄を引き取る。インドで「奇行癖がある」程度の認識しかされなかったリズワンがアスペルガー症候群だということに気付くのは、渡米後に会う弟の嫁のHaseena ハシーナだ。

ザキールにセールスマンの仕事を与えられたリズワンは、ある日サンフランシスコ市内の美容院でバツイチのインド系の美容師Mandira マンディラ(ヒンズー教徒)と知り合いやがて結婚する。マンディラにはSameer サミールという男の子がいる。やがてマンディラはサンフランシスコの郊外で美容院を始め、リズワンもそこを手伝うことになる。幸せいっぱいのリズワンとマンディラとサミールの家庭が9月11日事件をきっかけに崩壊し始める。

カーンという回教徒の名前を掲げる美容院の客足は落ち、サミールは学校でいじめに会う。学校でのいじめが原因でサミールが死亡したとき、「回教徒なんかと再婚しなければよかった」と悲嘆にくれるマンディラに「回教の教えの基本は愛だ」と説明するリズワン。そのリズワンにマンディラは「アメリカの大統領に『回教徒だからといってテロリストとは限らない』といわせるまであなたに会いたくない」とくってかかる。アスペルガー症候群のリズワンはその言葉を額面どおりに受け取り、大統領に会いに行く長く苦しい旅に出る。

これはBollywood ボリウッドといわれる、インドの大衆映画なのでストーリーはハッピーエンドだといっておこう。

映画の題名My name is Khan は旅の途中でリズワンが繰り返す”My name is Khan. I am not a terrorist.” 「私の名前はカーン。私はテロリストではない」から来ている。

ストーリーの紹介はこれくらいにして、この映画について別な側面から少し語りたい。

この映画の取上げた「テロリストでない回教徒にとっての9.11以後のアメリカ」というのは重いテーマだ。というのは9.11直後のアメリカでは回教徒に対するヒステリアが高まり、アメリカに住むシーク教徒(シーク教徒は宗教上の理由で髭を生やしている。詳細は
カシミール問題
http://mumbaikar.asablo.jp/blog/2010/03/08/4933989
の[註 2]を参照されたい)がトバッチリでリンチ殺人されたり、プロファイリングと称して、テロリストである人物の特徴がリストアップされ、それに伴い「回教徒狩り」が行なわれ、回教徒であるというだけで罪もない人々が逮捕され、場合によってはこの映画の主人公のリズワンのように拷問を加えられたりしたからだ。

プロファイリングによるテロ容疑者のあぶり出しは今に至るも継続している証拠に、昨年8月にこの映画の撮影のため訪米した主演のシャー・ルク・カーンがニューヨークの一方の玄関口ニューアーク国際空港の入国管理窓口で別室に通され2時間の尋問を食らったり、当初主人公の弟のザヒール役に配役が決まっていた回教徒のAamir Bashir アミール・バシールがアメリカの入国査証がとれなかったため差し替えられたりといった事態を経験している。

余り外国では報道されていないが、この映画のサミールのように学校でいじめにあったり、回教徒の店が破壊されたりといった事態が数多くあったことも事実だ。

ただこの映画は、そのような9.11以後のアメリカの暗部にのみスポットを当てているだけではない。主人公は長く苦しい旅の中で、多くのアメリカ人の善意や、同じインド亜大陸出身の移民同士の連帯に支えられて、ハッピーエンドにたどり着く。そう、映画はアメリカには回教徒に対するヒステリアがあることは事実だが、個々のアメリカ人の善意が決して死んでいないのだということや、インド亜大陸出身者同士の連帯感も伝えているのだ。

これまでヒンズー教徒と回教徒の間の紛争や宗教を異にする男女の恋愛と絡めて取上げた映画はある。前者で言えば、インド製の映画ではないがこのブログでもとりあげたSlumdog Millionaire (邦題「スラムドグ$ミリオネア)
http://mumbaikar.asablo.jp/blog/2009/02/28/4144280
http://mumbaikar.asablo.jp/blog/2009/04/21/4258448
後者で言えばMani Ratnamマニ・ラトナム監督のBombayボンベイ(1995年。この映画も大分前に日本で上映された)あたりが日本でも公開されたものの中での代表作だ。

My Name is Khan はその宗教を越える愛の舞台をアメリカに移し、アメリカの事件であった9.11に関連させ、更にそれに翻弄される南アジア出身の人々の姿を描くことで、マサラ(ヒンディー語で「いろいろなスパイスをミックスしたもの」の意味)といわれるボリウッド映画のミックスを大きく変えて見せることで成功したのだと思う。

「日本人の作る映画ではこのテーマは考えつかないよなぁー」そんなことを思いながら2時間41分の映画を見終わった。

インディアンの勝つ西部劇 – アバター映画評2010/01/22 22:35

私が子供のころの西部劇といえば必ずどこかでアワワワワと叫びながら馬に乗って矢や鉄砲を放ちながら主人公の白人のいる村か砦か幌馬車か汽車を襲うインディアンが出てきたものだ。そういう西部劇では、おおむね土壇場でインディアンは撃退されメデタシ、メデタシで映画が終わった。その後これではいかにも白人中心史観に偏りすぎているとの反省から、例えば「ダンス・ウィズ・ウルブス」のようにインディアンを駆逐することに疑問を持つ白人が出る映画が現れてきた。

アバターは地球が開拓を始めた遠い惑星パンドラに住む元々の住人ナヴィが、ナヴィに心を寄せるようになった地球人の兵士の助けを借りて、地球人を駆逐するまでの物語だ。つまりインディアンが勝つ西部劇だ(そういえばナヴィがなんとなくインディアンに似ていることに気がつく)。要するにこの一文で語ることができるほど単純なストーリーの構成なのだ。その単純なストーリーでどうやって2時間半以上観客を飽きさせず引っ張ってゆけるのか?そう、この映画はそれほど観客をあきさせない。答えは、スクリーン上で爆発が起こりカメラに向かって何かが飛んでくると、映画館のイスの上で思わず身をよじるくらいのリアルさをもつVFXと3D技術にある。これだけ技術の力で単純なストーリーを引っ張ることができるのかと唖然とした。ただ観客が3D慣れしてくると(後数年のことだ)、ストーリーの貧弱さをカバーしきれなくなってくる。そのときにはもっと内容のある作品でないとここまで観客を引っ張ることはできないだろう。

この映画を見ていてひとつ気になったのは、宮崎駿の「風の谷のナウシカ」から相当の影響を受けていることが見て取れるのに、映画のどこを見てもそのことがまったく登場しなかったことだ。スタジオジブリは20世紀フォックスとジェームズ・キャメロン監督に対して訴訟を起こしても良いと思う。こいつらを相手に回すとなると相当お金が要るが、これだけの観客動員をした映画だ。勝訴すれば相当のお金が転がり込んでくること間違いない。アメリカにたくさんいる成功報酬で仕事を請け負う弁護士を起用し、弁護士には賠償金の過半が行けばよい、ジブリは訴訟を通じてその存在を世界に知らしめればよい、と割り切ってやってみる価値はある。

And the Indians actually won! -- My take on Avatar2010/01/22 21:24

I am old enough to remember the days when any Western had the obligatory

I am old enough to remember the days when any Western had the obligatory

Indian hordes riding in whooping, shooting their arrows and occasional

guns, only to be beaten back by the cavalry arriving at the last minute and

saving the invariably white, civilization-bearing good guys.  The film

Exodus was essentially of the same theme – only it was the Jews who were

the good guys and the Palestinians who were the bad guys.  This was

eventually followed by movies like Dance with Wolves introducing the

doubting Thomas white guy who eventually turns “native” – but probably

eventually perishes for that perfidy. 

 

Well, in Avatar the bows and arrows wielding Na’vi (who actually look

remarkably like the “Injuns” or yore) actually manages to beat back the

civilization-bearing guys for a change, with the help of the doubting Thomas

white guy.  The film is also interspersed with liberal doses of

(unacknowledged) gaïa themes from Hayao Miyazaki’s animation epic

Nausicaa of the Valley of the Wind.  Okay, with Nausicaa it was a giant

worm who spewed golden colored feelers to resuscitate chosen people, and

in Avatar it’s the giant Tree of Souls with its luminous white strings that

does an identical trick – but you get the drift. 

 

What original twist that Avatar provides is the future world tech that enables

even the paraplegic protagonist Jake to bio-electronically remote control his

avatar.  And bringing juice to that well-worn storyline are the incredible

VFX and 3D technologies, that literally makes you dodge on your theater

seat when that shrapnel jets out of the screen towards you. 

 

So this is my take of the film: well worn story line with a slight twist,

executed with brilliant technology that rivets you to the seat.  Score one for

tech – but when everyone gets used to the 3D technology in action-packed

movies, I still think you’ll need a strong content to pull the audience

through.

 

 

 


水のなるほどクイズ2010