インドの財閥--ビルラ財閥2009/08/29 20:18

ビルラ一族はインド西部の砂漠地帯をカバーするラジャスタン州出身のMarwari(マルワリ)だ。マルワリとは「マルワール地方出身者」という意味だが、通常インド人の間でマルワリといえば、先祖がこの地方出身の商人やビジネスマンのことだ。彼らの多くは敬虔はヒンズー教徒で菜食主義者だ。マルワリの人口のほうがパルシー(パルシーの説明については「インドの財閥—タタ財閥」
http://mumbaikar.asablo.jp/blog/2009/08/21/4529368
ご参照)の人口より多いこともあって、インドではマルワリ系の財閥のほうがパルシー系の財閥より数は多い。数あるマルワリ系の財閥の中でビルラ財閥はその筆頭であった。

マルワリ相手のビジネスで誰もが直面することは、彼らがお金には厳しいということだ。価格交渉がシビアだし、得た利益の蓄財にも熱心だ。投資したお金を長く寝かせておくことも一般的には避ける傾向がある。「果てしない値切りに辟易とした」とか、「工業に投資するにしても、とにかくスグ資金の回収をはかる」といった話は大体マルワリ系の企業を相手にしての話だ。まだ私がインド・ビジネスに関与していなかった頃、知人のインド人に「お前の会社はインドではどこと付き合っている?」と訊かれ、いくつか名前を挙げたら”They are all Marwaris”(全部マルワリじゃないか)といわれて上述のようなマルワリの特徴について説明を受けたことがある。インド人の間でもマルワリはガメツイという風評があるわけだ。

話をビルラに戻そう。インドの企業グループを見る場合、財閥としての統制ということで言えば
「Ambani(アンバニ)一族物語 1/2, 2/2」
http://mumbaikar.asablo.jp/blog/2009/08/15/4514916
http://mumbaikar.asablo.jp/blog/2009/08/16/4519069
で書いたムケシュ・アンバニのReliance Industries Ltd (RIL)がもっとも強く、グループ企業間のつながりを作ろうと模索しているタタがその次かもしれない。

ビルラ財閥についていえば創始者G. D.ビルラ存命中は、同じビルラ系の企業が競合することは日常茶飯、という傘下各企業の一見無秩序な企業活動にその特徴があった。G. D.ビルラはあるとき「ビルラ財閥など存在しない」と公言したという。しかし「いくら儲けているのか」という部分での管理はキチンとやっていたのがもう一つの特徴だ。ERPとかEDPとかいったものが存在していなかった頃から傘下各企業が毎日その日の生産量や損益や現金ポジションを本社に報告するparthaといわれるシステムが存在していたのは注目すべきポイントだ。

通信事情が改善された今ならいざ知らず、’60年代とか’70年代とか国内通信事情の悪いインドでインド各地に散らばるビルラ系企業の各事業所がその日の生産量や損益をまとめ、それをキチンと当主に報告していたというのは驚くべきことだ。まだインドの長距離通信が不安定であった頃、あるビルラ系の企業の本社に行ったら日が暮れるとテレックスのオペレーターが必死に傘下の工場とのテレックスの回線を確保し、回線が通じるとその工場からのデータが刻々とテレックスで入ってくるのを見て、感心というよりむしろ感動したことを覚えている。現在の日本の企業で、世界中の拠点からその日のうちにこのようなデータを集めて本社に報告が上がるシステムが出来上がっている企業はどれくらいあるのだろう?

G. D. ビルラの考え方の特徴を示すエピソードがもうひとつある。1983年に死ぬ直前G. D. ビルラが日本の工場で活躍するロボットに興味を持ち、その技術導入の可能性を探っていたことがある。彼の論理は「インドの製造現場では工員のレベルが低いので、インド製造業の製品品質を国際レベルに引き上げるにはロボットの使用が必要ではなかろうか」というものであった。このG. D. ビルラの認識は、インドの製造業の将来を憂えるインド経済の大物の危機感と、収益回収を急ぐあまり製造現場にキチンと投資をすればインドの工員も高いレベルに到達する、つまりは「インドの製造現場のレベルの低さの一因は短期の資金回収を急ぐ企業の経営方針にも求められることを見落としていた」という両面が混在しており、興味深い。

上で「数あるマルワリ系の財閥の中でビルラ財閥はその筆頭であった」と過去形で書いたのはG. D. ビルラの死後、もともとS. K.、K. K.、Adityaら3人の息子・孫に分割管理させていたビルラ財閥の事業相互の独立性がいっそう強まったからだ。[頭文字が続くが、これは名前を秘すためではなく、名前が長いためインドの慣習に従い頭文字を使っているものだ]

G. D.の長男L. N.は学者であったため彼の息子のS. K.が事業を継いだ。次男K. K.は肥料事業を継いだが2008年の彼の死後事業は子孫の間で分割された。三男B. K.の事業は1965年に米国のMIT(マサチューセッツ工科大学)を卒業した息子のAditya Birla(アディティア・ビルラ)が早くから継いだ。アディティアは前立腺癌により1995年に51歳で早世したため、欧州の著名ビジネススクールであるLondon Business School(ロンドン・ビジネス・スクール)を卒業した長男のKumar
Mangalam(以下クマール)が事業を継いだ。今のインドでビルラの事業といえばクマールが会長をつとめるAditya Birla Group(アディティア・ビルラ・グループ)といわれる企業群が一番有名であろう。

このアディティアが政府の規制を嫌って国外での事業展開を志した部分は、国家を頼らず、純粋に利益に忠実なマルワリの行動の一面をよくあらわしているが、その彼らとて自分のホームグラウンドを固めておくことが自分たちの利益になることも熟知している。前述のG. D. ビルラのインドの産業の前途に対する危機感はその一面を示している。G .D. ビルラはインド独立にも深く関与しており、インドの国父ガンジーが暗殺されるまでの最後の4ヶ月を過ごしたのも、暗殺された場所もビルラ邸だ。ビルラが独立後のインドで頭角を現した背景にはインド独立運動に関与する過程で得た、独立後のインドの政治を担った層との公私にわたる深い関係がその背景にあったといえる。

インドの経済が政府による厚い保護に守られていた頃、保護に守られ利益を保証される事業分野で多くのマルワリ系の企業が活躍していた。「Our product is good enough for our market(我々の製品はこの市場には十分なものだ)
http://mumbaikar.asablo.jp/blog/2009/06/09/4355485
でも書いたアンバサダーはビルラ財閥傘下のHindustan Motors(ヒンドゥスタン自動車)が製造していたし、インド人の庶民の足となっていたスクーターのBajaj(バジャジ)は別なマルワリ系の企業の製品だ。しかし、政府保護が解除の方向に動き始めてからこれらマルワリ系の企業グループの旗色がいまひとつパッとしないのは、彼らのビジネスモデルに政府の産業保護を前提とした高収益と、言葉を変えていえばOur product is good enough for this market型のビジネスに安住し、それから得られる高収益の蓄財に走り事業への再投資を十分に行ってこなかったからではないかと思う。

アディティアと彼の息子のクマールに話を戻す。この親子は古典的なマルワリの行動パターンからすればやや異色の行動をとる存在だといえよう。MITを卒業して帰国したアディティアはレーヨン事業で成功を収め、1969年弱冠26歳でタイに進出、1978年に同じくタイでカーボンブラック事業を創業した。息子のクマールは傘下のアルミ製造事業のHindalcoを大いに拡大し2007年にAlcanがスピンオフしたアルミ・ロール製品のメーカーNovelisを買収した。本年3月末現在(2008年度)のHindalcoは連結売上1258億米ドル(内アルミ関係の売上は41%)、純利益9.3億米ドルだ。ちなみに当のAlcanは2007年にはRio Tintoに買収されている。Rio Tintoの財務諸表を見ると2008年のアルミの売上が238億米ドルと報告されているので、Hindalcoの規模がわかろうというものである。

クマールはその他の事業の大きな部分をAditya Birla Nuvoという持株会社の傘下に持ってきているが、事業内容を見ると衣服、レーヨン、カーボンブラック、碍子、保険と実に多彩だ。そのなかでもカーボンブラック事業はインド、タイ、エジプト、中国(遼寧省)の四箇所に生産拠点を持ち年産79万トンの生産能力を有している(インドの事業以外の財務内容は非開示)。世界最大のカーボンブラックメーカーであるCabot Corporationのカーボンブラック部門の生産量が年間200万トン弱なので同社よりは規模が小さいが、Cabot社の開示資料には

<We compete in the manufacture of rubber blacks primarily with two companies with a
global presence, [中略] and with at least 20 other companies in various regional markets in which we operate, including the Aditya Birla Group of companies [後略]
我々はカーボンブラックの製造で世界的なプレゼンスを持つ二社と競合しているが、それに加え我々の活動するさまざまな地域の市場でAditya Birlaグループ企業を含む少なくとも20社と競合している>

と書かれている。日本最大の東海カーボンが登場しないところをみると、東海カーボンよりビルラのほうが競合先として認識されているようだ。また、碍子の分野では2007年度の連結売上が
1707億円、営業利益が435億円となっており、連結売上が825億円、営業利益が87億円(儲かっていませんね)の日本碍子の碍子事業の倍近くの規模の事業となっている。

Aditya Birla Nuvoはどちらかといえばインドにおけるさまざまな事業を一つの傘の下に持ってこようという、タタ財閥的な発想で作られた企業と思われるが、反面例えばカーボンブラック事業をAditya Birla Nuvo傘下のインドのカーボンブラック事業ともどもBirla Carbonといって対外的に説明している。このあたりビルラのよく言えば連邦経営的、悪く言えば一見無秩序な企業活動の側面は継承されているようだ。

タタ財閥のところでも書いたがこれだけ多彩な事業の再編は必要ではないかという気がするが、クマールはこの点を質したインドの地元経済誌Businessworldのインタビューに対して、

<Stick(ing) to the knitting — I don’t think it is a good idea for India. The country is in a
stage of evolution where many sectors are opening up that were earlier not open to private
participation. Sectors such as insurance and telecom. If you stick to the knitting, then you are shutting off opportunities.
自分の得手なことに集中する--これはインドでは良いアイディアだとは思わない。インドはこれまで私企業が参入できなかった部門への参入がどんどん解放されつつあるという成長段階にある。保険や通信がその例だ。得手なことに集中することはビジネスチャンスをシャットアウトすることになる。>

と答えている。さて、この発言どこまでが真意なのだろう。インドの経済が十重二十重の政府の規制で外資の参入を制限していた時代ならいざ知らず、グローバリゼーションの時代にはインドにも世界的な規模を持つ企業が遠慮なく参入してくる。現にクマールがあげていたインドの携帯電話事業にはVodafoneを始めとするグローバル・プレーヤーが参入している。母校ロンドン・ビジネス・スクールのGlobal Advisory Council(国際顧問会議)委員をやっているクマールほどの人物がこの点を認識していないことはないだろう。自分自身グローバル・プレーヤーの事業を傘下に持つ企業グループの当主が、本当に自国の市場でしか通用しない規模の事業でグローバル・プレーヤーと戦えると思っているのだろうか?

むしろこの発言、社会に対して雇用の維持をコミットせざるをえないインド企業の当主が、インドの経済が閉鎖的であった時代に先代が手を出した事業から撤退できない事態を合理化するための発言なのではなかろうか?

私はクマール・ビルラは自分の企業グループをグローバル・プレーヤーとベンチャーに分け、後者については自分達は一種のベンチャー・ファンドとしてソコソコの規模になった事業は売却することを考えているのではないかと見ている。

水のなるほどクイズ2010